中国新聞
2001/4/22
 久野 朋博(山口鴻城)  (6) 
 ひさの・ともひろ 1974年8月16日、北九州市生まれ。香月中(福岡)〜山口鴻城高〜中間市役所。総務部税務課に在籍。職場の同僚で作る軟式野球チームでは「二番、二塁手」。全国官公庁野球連盟中央大会で首位打者に輝いたことも。右投げ左打ち。捕手。北九州市八幡西区在住。
「どの守備位置でも、キャッチボールを大事にするのが上達の近道」と力説する久野さん  
 
持ち前の器用さを発揮し、チームの勝利に貢献した久野  
社会人では打撃磨く

 複数の守備位置をこなすオールラウンド・プレーヤー。一九九二年夏の甲子園に出場した山口鴻城の久野は、その道でまさしく「免許皆伝」だった。内、外野を問わず、さらには投手と捕手の「二刀流」で抜群の切れ味を見せた。

 三塁手が本職だった。三年の春季県大会2回戦で、序盤に右肩を負傷した正捕手に代わり、急きょ初マスクをかぶった。ここで、二盗を試みた走者を矢のような送球で刺した。

 運命を決めるプレーは「体が自然に反応しただけ」。本人はこの試合でお役御免のつもりだったが、大会後に新品の捕手用ミットと背番号2を渡された。

 夏の山口大会はエースの右肩痛が完治せず、救援投手のお鉢が回ってきた。スタメンは捕手か左翼手。ピンチを迎えると控え選手にグラブを借りて、マウンドに上がった。「捕手の時は投手への返球で肩を慣らし、出番に備えていた」

 テークバックが小さい典型的な「野手投げ」だった。自分ではカーブを投げるつもりが、「腕の振りが小さい分、直球と球速が変らないスライダーとなるんです」。3回戦で打者21人に対し、5者連続を含む9三振を奪った。決勝の多々良戦も一回一死からロングリリーフ。優勝投手になった。

 6試中5試合に登板し、33回1/3で5失点。周囲は甲子園で背番号1を勧めた。「本来のエースには、背番号に対する執着がある。僕は本来は野手だから、打撃に専念したい」と辞退した。

 甲子園1回戦の一関商工(岩手)戦は、七回途中、捕手からマウンドに。1失点に抑えたが、味方打線の援護がなく、1―5で敗れた。「無安打に終わったのが悔しかった」。思いは常に打撃に置いていたのだ。

 高校卒業の時、監督から「いろんな役目を負わせてすまなかった。社会人で活躍するには、一つのポジションを極めさせてやるべきだった」と頭を下げられた。

 官公庁単独の軟式チームとしては、強豪の福岡県・中間市役所に就職した。ここで「器用貧乏」の不幸を味わった。一年目から速球投手として活躍。ところが、軟式は硬式に比べ球が軽く、筋肉の使い方がまるで違った。「それを考えず投げ続けたつけで、肩がボロボロになった」。二十歳の時、右肩にメスを入れた。

 強肩を失い、一度は野球をあきらめかけた。「芸は身を助ける」とはよく言ったもの。好きだった打力を磨き、強打の二塁手として復活。九七年に軟式チームの頂点を決める天皇杯全日本大会で優勝した。「始めは無理だと思うことも、まずは挑戦してみよう」。高校野球は、かけがえのない「人生訓」を与えてくれた。


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