2001/4/25
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| 松本 優二(宮島工) (8) |
| まつもと・ゆうじ 1977年12月30日、広島県大野町生まれ。大野中〜宮島工高〜広経大〜三菱重工広島。広島六大学リーグで3年春に首位打者に輝き、通算10本塁打、61打点。ベストナインは4度。春夏5度のリーグ優勝に貢献した。右投げ左打ち。捕手。広島市西区在住。 |
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| 「広田監督を野球人、人生の先輩として尊敬している」と語る松本さん |
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| チームの大黒柱として、宮島工を初の甲子園に導いた松本 |
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監督への反発が原動力
一九九五年夏、日本三景の一つ、安芸の宮島を対岸に望む町で野球フィーバーが巻き起こった。「ミヤコー」と呼ばれる宮島工が、創部三十四年目にして初の甲子園切符をつかんだ。四番で捕手の松本は攻守にわたって、大黒柱を務めた。
夏の広島大会は、チーム打率3割9分6厘と強打で勝ち上がった。決勝の崇徳戦は一回に5点を先制されたが、二回に6点を挙げて逆転。両軍15安打ずつの乱打戦を制した。大会打率4割2分9厘、9打点を挙げた主砲は「監督に文句を言わせないプレーがしたかった」。反骨心は対戦チームではなく、広田利信監督(47)に向けられていた。
中学時代から強肩、強打の大型捕手として鳴らし、強豪校の勧誘を断って入学した。「兄のいた学校に愛着もあったんです」。一年春からレギュラーに座った。期待が大きい分、広田監督の「口撃」標的となった。「お前は言い訳ばかりする」「勉強も野球も、中途半端なやつじゃ」
認めざるを得なかった。恥ずかしさと怒りを押し殺し、ノックに食らい付いた。「今思えば、監督は反発心を野球に向けさせようとしたのでしょう」
もう一つ発奮材料があった。八〇年代から全国的に校内暴力が増え、学校は荒れた。宮島工も例に漏れなかった。平成に入り沈静化したが、レッテルは付きまとった。部員は勝ち気な選手が多く、個性派集団だったが、そうしたレッテルに我慢ならなかった。「甲子園出場で学校のイメージアップを図ろう」と団結した。
甲子園初戦で、関西と対戦した。一回一死三塁でスクイズを見破ったが、三塁走者にタッチをかわされ、先制点を許した。広島大会から十五日ぶりの試合で「気持ちばかり焦った」。
打線も、吉年滝徳(元広島)に七回二死まで無安打無得点。左前への初安打は、四番のバットから生まれた。「直球だけに的を絞った。意地がありましたからね」。結局、2安打で0―11の完敗を喫したが、だれ一人として涙を見せなかった。ポーカーフェイスは、監督の教えだった。
広経大、三菱重工広島でも、闘志あふれるプレーを見せる。試合では、どんな時も喜怒哀楽を表面に出さない。「広田監督から、目の前の結果に一喜一憂するなと教えられましたから」。常に目標を高く掲げ、野球道に打ち込んでいる。
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