2001/4/29
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| 小町 裕貴(如水館) (10) |
| こまち・ゆうき 1981年6月25日、三原市和田町生まれ。駅家中〜如水館高〜王子製紙。昨年4月の高砂市長杯大会で2勝を挙げ、敢闘賞に輝く。都市対抗大会は本田技研鈴鹿の補強選手として出場。右投げ右打ち。愛知県春日井市在住。
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| 「監督やチームメートから絶対的な信頼を受けるエースになりたい」と抱負を語る小町さん |
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| 如水館が3年連続で夏の甲子園に出場する立役者となった小町 |
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野手練習で打も磨く
ミレニアム(新千年紀)を前に、一つの黄金期が花開いた。如水館が一九九七年から三年連続で夏の甲子園出場を果たした。広島商、呉港、広陵に続く史上四校目の快挙。三原市の新鋭校が一躍、強豪の名乗りを挙げた。大躍進は、エース小町の右腕なくしては語ることはできない。
平成に入り、毎年夏の優勝校が変わる「戦国時代」が続いていた。九三年、広島商の主将、監督として全国制覇を飾った迫田穆成監督(61)が就任した。
チーム強化に向け、有望中学生の勧誘に着手した。中学時代の小町は、投手兼遊撃手。迫田監督は「日本一の投手になれる」と投球センスにほれ込んだ。一方で、打撃と守備の非凡なセンスに着目し、熱心に誘う強豪チームの監督もいた。
一年夏の甲子園は登板機会なし。その秋にエースの座をつかんだ。迫田監督には「背番号1の選手は、打撃や守備もチームで一番となれ」と言い渡された。投手組と野手組の両メニューをこなした。熱心な練習姿勢がチームメートの共感を呼び、信頼をつかんだ。
エースの称号を不動にするまでには、数多くの挫折を味わった。二年夏の甲子園1回戦の専大北上(岩手)戦は七回裏、八十三年ぶりの降雨コールドで引き分け。再試合で初勝利を飾ったが、エースは2試合とも途中降板の辛酸をなめた。「力むと制球が乱れる悪い癖が出た」。2回戦は案の定、不用意な球を痛打され敗れた。
「勝運は小町が握る」。三年時には監督がそう語るほどの成長を見せた。校名の「水の如(ごと)き」流れるようなフォームから、140キロ前後の速球を投げ込んだ。「七割の力でも、正しい腕の振りなら、全力時と同じ球速が出せる」
広島大会は防御率0・63。バットも好調で3試合連続アーチを放った。背番号1が真の意味で「ナンバーワン」の輝きを放った。
三年夏の甲子園1回戦で、初出場の柏陵(千葉)は、11三振を奪いながらも0―2で惜敗。三度の甲子園で1度も勝利投手の勲章をつかめなかった。「球威、制球とも過去最高だった。でも、エースはどんな試合でも負けない投球をしなければならない。その点で悔いが残る」と振り返る。
王子製紙でもエース番号の「18」を背負う。一年目から補強選手として都市対抗大会に出場。「勝っても負けても、何らかの収穫を得たい」。プロ入りに夢をはせ、挫折を糧にする覚悟でいる。
(おわり)
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