中国新聞
2002/05/17
戦後ヒロシマの裏面史
暴力団の介入 色濃く

広島県の暴走族推定数

 戦後の経済成長、モータリゼーションの中、日本各地で若者たちが「暴走」を始めた。オートバイなどで無謀運転や迷惑行為をする集団はカミナリ族、サーキット族、そして暴走族と呼び名が変わった。「若者にありがちな行き過ぎた遊び」。そんなとらえ方もされてきた。

 だが、暴力団との深いつながりを背景に犯罪集団化し、都市の治安を脅かし、平和都市の名を損ねているのが、現在の広島の暴走族だ。一九九九年秋の胡子大祭(えびす講)では市街地で警官隊と衝突、全国に汚名を広げた。

 不幸な連鎖は、なぜこの街で起きたのか。「暴走」をキーワードに、被爆から「えびす講騒動」に連なるヒロシマの戦後を概観してみる。

(暴走族取材班)


焦土の戦後
全国平均上回る「刑法犯少年」

 被爆七年目の五二年二月。十四〜十六歳の少年四人が鉄くずを探して広島市内を歩き回った揚げ句、民家からやかんを盗んだ事件を中国新聞が報じている。「おなかがすいて仕方なかった」。そんな動機を伝える。

 広島県警などに残る記録によると、その前年の十〜十九歳の少年千人に対する「刑法犯少年」の割合は、全国平均が九・五人なのに対し、広島県内は一三・四人に上る。

 戦後の貧しさは全国共通だったが、一発の原爆で焼き尽くされたヒロシマは、他都市以上に復興の年月を要した。五〇年の県民一人当たりの所得は、全国平均の約75%。当時の少年犯罪を今の「暴走」に置き換えるには、時代が貧しすぎた。

 一方、焦土を覆いやみ市がひしめいた広島駅前などでは、暴力団同士のけん銃抗争が相次いだ。原爆は戦後の社会秩序にもダメージを与えた。そして暴力団の抗争と存在は、その後も平和都市に影を落とし続けた。

関連年表
青の太字は全国の動き

1945年 8月、広島と長
  崎に原爆投下。終戦
46年 暴力団の第1次広
  島抗争始まる
49年 少年法施行▽広島
  平和記念都市建設法
  が公布
55年ごろ 東京などで「
  カミナリ族」出現
60年 道路交通取締法が
  道交法に全面改正
63年 暴力団の第2次広
  島抗争始まる
64年 東京五輪開催
65年ごろ 東京で乗用車
  の「サーキット族」
  が登場
66年 ビートルズ来日公
  演
▽NKK福山製鉄
  所1号高炉で火入れ
68年ごろ 平和記念公園
  で大規模な暴走行為
  が頻発
69年 広島大本部が学生
  運動で封鎖▽暴力団
  の第3次広島抗争始
  まる
70年 大阪万博開催
72年 6月に富山駅前の
  繁華街で暴走する若
  者と見物客計2500人
  が暴徒化。他都市
  に波及し「暴走族」
  の呼称が登場
▽7月
  に岡山、福山市で同
  様の騒乱事件
73年 映画「仁義なき戦
  い」公開
75年 広島市に組織化し
  た暴走族が出現。呉
  市でも
76年 5月、神戸市の神
  戸まつりで暴走族と
  群集が暴徒化。取材
  中のカメラマンが死
  亡
78年 共同危険行為の新
  設を含む道交法改正

  ▽10月に広島東署新
  天地交番を暴走族ら
  が取り囲み、投石な
  どを繰り返す騒乱事
  件
80年 広島市が政令指定
  都市に▽日本の自動
  車生産台数が世界一
  に
83年ごろ 西区の商工セ
  ンター一帯で深夜、
  暴走行為が頻発
85年 道交法改正で騒音
  運転の禁止規定新設

  ▽暴力団の第4次広
  島抗争始まる▽パー
  ソナル市民無線を不
  法に交信するグルー
  プを広島県警が摘発
  。背後に暴力団組織
86年ごろ 広島市中心部
  を車で周回する「八
  丁左回り族」が活発
  化
89年 バブル経済の崩壊
  始まる
92年 道交法改正でマフ
  ラー改造を規制

  対法施行
94年 広島アジア大会開
  催
95年 広島大の東広島市
  移転が完了
98年 12月、米軍岩国基
  地隊員に集団暴行し
  た広島市の暴走族少
  年らの公判で、広島
  地検が「面倒見」組
  員の指示を冒頭陳述
  で指摘
99年 11月のえびす講で
  暴走族が暴徒化、警
  官隊と衝突
2000年 4月に広島県の
  暴走族追放促進条例
  施行
02年 4月に広島市の暴
  走族追放条例施行

高度成長の落とし子
車好き集い「カミナリ族」

 「神武景気」と呼ばれた急速な経済浮揚に伴い、五六年の経済白書は「もはや戦後ではない」とうたった。街を「太陽族」と呼ばれる若者がかっ歩した。東京など大都市ではオートバイで爆音をまき散らしたり、曲芸的な乗り方を競ったりする「カミナリ族」が出現した。

 六〇年代に入ると、他都市並みの復興を果たした広島の街でも、暴走する二輪車が見られるようになる。「ごく一部の若者に、なんとか二輪車が買えた時代です」。元広島県警交通部長の川崎和彦さん(67)=広島県府中町=は、カミナリ族を白バイで追い、速度違反や整備不良で摘発した。

 「主体は車好きの若者たち。取り締まりには、おおむね素直に従っていました」と記憶をたどる。


享楽の暴徒
群衆巻き込み騒乱事件

 モータリゼーションの波とともに、六五年以降は乗用車で急発進、急旋回などを繰り返す「サーキット族」が登場。六八年ごろには中区の平和記念公園の噴水付近で、二輪車を乗り回す集団が現れている。

 サーキット族は、見物の群衆と一体になって暴徒化する傾向を強めた。七二年六月に当時の国鉄富山駅前で起きた騒乱事件が中国地方にも飛び火、七月には岡山市と福山市で、多数の暴走車と群衆を巻き込んだ騒乱事件が相次いだ。

 「明け方までタイヤの狂宴」。中国新聞はそんな見出しで、福山駅前で乗用車約六十台と群衆二千人が騒ぎ、五人の逮捕者が出た事件を伝える。一連の騒乱の記事の中で「暴走族」の呼び名も記事に登場した。

 当時、川崎さんは週末ごとに県警本部から福山へ赴き、対策の指揮を執った。「暴走車もさることながら、群衆をさばくのが大仕事。集まらないようビラを配ったり、歩道に座って見物しないよう水をまいたり…」

 福山市は戦後、工都として多くの若年労働力を急速に吸い上げた。若いエネルギーの「暴走」は、呉市や広島市でも起きた。


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組織化の裏に
1000人で交番を囲み投石

 県警の資料をひもとくと、広島市内で組織化した暴走族が現れたのは七五年ごろ。七八年十月には、広島東署新天地交番(中区)を暴走族を含む約千人が取り囲み、投石などを繰り返す事件が起きている。

 暴走族の粗暴化が全国的に進む中で同年、集団暴走をターゲットにした「共同危険行為」規定を新設する道交法の改正があった。

 「見物人から声援を受けるのが快感じゃったんかね」。安芸郡の建設会社役員の男性(33)は八〇年代半ば、暴走族のリーダーとして西区の商工センターなどで集団暴走をしていた。当時、刺しゅうの入った「特攻服」も定着していた。

 そのころ、周辺のグループで「ある変化」が起きていた。「暴力団が小規模な暴走族グループを集め、連合体をつくり始めたんよ」

 当時は、暴力団を避けて暴走するほど存在は遠かった。だが、相次ぐ暴走族同士のトラブル、けんかにつけ込むように、暴力団の側から「面倒を見させろ」と近づいてきた、という。


広がる黒い影
深夜の街に「八丁左回り」横行

 同じ時期、広島市中心部を深夜に乗用車で低速で走り回り、女性に声を掛ける「八丁左回り」が横行した。西区の自動車修理業の男性(37)も「左回り」に興じた一人だ。

 車好きやトラック運転手、暴走族の間でパーソナル市民無線が流行した。この男性もあるグループに入り、組織名の入ったプレートやジャンパーを買った。「その金が暴力団に流れとったらしくてね」。男性はまゆをひそめた。

 八五年には現在の指定暴力団の共政会組員が設立したとされる別の無線グループが、電波法違反容疑で摘発されている。「多数のメンバーに売ったステッカーやプレートなどの代金を資金源にしていた」と捜査した県警幹部。暴力団と暴走族とのつながりを、県警が確信した事件だった。


資金源に「支配」確立
警官隊と衝突 犯罪集団化

 九二年に施行された暴対法。そしてバブル経済崩壊後の長期不況。資金源の細った若い組員は「後ろ盾」になる名目で暴走族少年らに近づき、上納金を吸い上げるようになった―。ある県警幹部は、暴力団と暴走族の関係が深まった経緯をそうみる。

 その関係を背景に、ひったくり、恐喝、リンチなど、暴走行為にとどまらない暴走族の犯罪集団化は進んだ。

 暴走族に寄生する「面倒見」組員の存在を、広島地検が公判で指摘したのが九八年十二月。面倒見の支配下にある広島の暴走族がえびす講で警官隊と衝突したのは、翌年の十一月である。

 被爆の傷跡の癒えぬ五三年に警察官になり、暴走族の背後に暴力団の色濃い影を見ながら十年前、退官した川崎さんは警告する。 「暴走が、豊かになるのに伴う『若者のはしか』だった時代は終わった。今の広島の暴走族の実態に、社会全体が向き合わなければならない」。

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  ■ファクス 082(236)2321   ■電子メール shakai1@chugoku-np.co.jp


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