わが夢

2008/4/23
中村ブレイス社長
中村俊郎氏(2)
納屋で創業
一点突破で販路を拡大


 自宅近くの古い納屋を改装して創業した。たった十坪の作業場。「中村ブレイス」と書いた看板を父親と一緒に掲げた。社名の「ブレイス」は「勇気を与える」とか「支える」という意味。いつか世界の人たちに喜ばれる物を大森町から作るぞとの志を込めた。
 でも現実には、来る日も来る日も仕事がなかった。最初の一カ月の総売り上げは伯父に作ったコルセット一個の一万二千三百円。コルセットを身に着けた伯父がバスのステップを上って「俊郎や。このコルセット、楽なことよ。近所の人に紹介してやるからな」と大声で話した。これが最初の仕事で、今も忘れない。一九七四年のクリスマスごろだった。


 titleicon山陰労災病院での契機    

 山陰の病院を開拓しようとしたが、厳しかった。病院の業界はしがらみが多く、なかなか新参者を受け入れてくれない。アポイントを入れると何さまだと思われて逆に失礼だから、飛び込みしかなかった。医師の紹介状に頼らず、名刺を持って歩いたが、玄関払いが続いた。銀行もお金を貸してくれなかった。

 「黙々と 小さき歩みや かたつむり」。そんな時、父親がこんな言葉で励ましてくれた。一歩一歩少しずつ売り上げを上げていけばいいと言ってくれた。涙が出た。絶対やってやるぞと誓った。

 米子市の山陰労災病院にあいさつした時に契機が訪れた。山陰の中でも、米子は良い仕事をしさえすれば、地元でなくても受け入れてくれる風土があった。

 副院長に名刺を渡すと「あなた良い仕事してくれるんでしょ。いつから来てくれるの」と言ってくれた。思いがけないことで驚いた。名刺に「米国の装具士補」と書いてあったからだと思う。日本人で取得したのは私が初めてだった。「来週の水曜から来させてもらいます」と答えた。    

 titleiconあきらめず一途に行動

 副院長を信頼して、命がけで仕事をした。ここで評判を得たことが大きかった。「中村ブレイスは良い仕事するらしい」と口コミで広まった。徐々に山陰に販路が広がり、広島にもうわさが広まっていった。口コミなんて、と思っていたけれど、やっぱりある。山陰労災病院からの一点突破だった。 

 医師たちは仕事の良さよりも私の一途な姿を見ていたと思う。悲壮感が漂うほどの一生懸命さが、けなげに映ったのではないか。朝五時に起きて、平日は営業に回り、土日は義肢装具づくり。休む暇もなく、忙しさのレベルが違った。よく生きていた。あきらめずにやると光が差してくる。途中でやめると何にもならない。    

 でも私の夢は世界の仕事をすることだった。このまま同じことをやっていれば山陰の中村ブレイスで終わってしまう。世界に売り出せる製品を、と考えていた時に一つの灰皿と出合った。(河野揚)


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