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| 2006/02/09 |
| 旧広島総合銀行(現もみじ銀行)元頭取 |
| 篠原 康次郎氏 (3) |
| 2度目の広島勤務 |
| 20年ぶり 変ぼうに驚く |
■篠原康次郎氏は、一九五四年から五八年まで日本銀行調査局調査課に勤務し、総務部などを経て六六年五月広島支店長。六九年五月発券局長に就いた後、退職して同年十一月旧広島総合銀行(広島市中区)の前身、広島相互銀行に移った。
私は調査課では、課長の吉野俊彦さんの下で産業政策の基礎資料づくりを担当。国内産業の実態を調べるのが仕事で、例えば筑豊の炭坑の中に入ったこともある。当時は戦後の産業復興期で傾斜生産方式がとられ、特に石炭や鉄鋼など主要産業の育成に力を入れていたからだ。 それから総務部に移り、公定歩合などまさに日本の政策金融の中心にいた。公定歩合は日銀総裁が決定するのだが、総務部はその下で準備するのが仕事。だから、私にはいつ公定歩合をいじるか分かる。そのため、新聞記者の取材でよく追いかけ回されたものだ。 函館支店長などを経て六六年五月、広島支店長として二度目の広島勤務になった。戦後間もない四六年六月に広島支店を去って二十年。その間、一度も広島を訪れたことがなかったから、その変ぼうぶりには驚いた。広島駅前や八丁堀、紙屋町にビルが林立していた。かつて焼け野原だった街中を歩き回ったことが、うそのように思えた。 そのころの広島は、東洋工業(現マツダ)をはじめ、勢いのよい企業ばかり。それまで東京の本店で開かれる日銀支店長会議でも広島の復興ぶりは耳にしていたが、実際に来てみて、活気にあふれていると実感した。 私は三年間、支店長を務めた間に、地元の経営者と会っては話を聞いていた。その仕事を通して皆さんと仲良くなった。特に東洋工業社長の松田恒次さんをはじめ、広島の有力企業で組織する二葉会の人たちには随分とかわいがってもらった。その中の一人が当時の広島相互銀行社長で、今のもみじ銀行の森本弘道頭取の父、森本亨さんだ。
私は六九年五月、発券局長に就任するため広島を離れたが、半年後には日銀をやめて広島に舞い戻った。「篠原さん、うちに来て社長を務めてくれませんか」と森本さんから頼まれたからだ。 当時の森本さんは二葉会を中心とした財界活動に力を入れていた。広島相銀の経営は、森本さんの弟の榎並栄専務に任せており、次期社長に据える予定だった。 ところが榎並専務が六八年に急死。それで私に白羽の矢が立ったのだ。私は支店長時代に榎並専務の葬儀に参列した。後に榎並専務に代わって社長を務めることになろうとは、思ってもみなかった。(宮田俊範) 【写真説明】広島相互銀行幹部。前列右から3人目が篠原氏、中央が森本亨氏(1981年 |
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