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デルタに発展した広島にとって

「母なる川」である太田川。

標高1339メートルの冠山一帯の森を源流に、

中国山地を南東方向へ曲流を重ね、広島湾に注ぐ。

相次ぐ災害やコロナ禍で

自然の豊かさや脅威が再認識されるいま、

全長103キロの太田川と流域を訪ねて、

その恵みと営みを見詰める。

 

第5回【那須の隠れ滝】
豊かな水 「消滅集落」に光
(広島県安芸太田町)

隠れ滝―。その響きに心引かれた。広島県安芸太田町で十方山(1319メートル)から北へ続く斜面を刻む幾筋もの谷の一つにある名瀑(ばく)。厳冬期の姿を見ようと1月下旬に向かった。

滝の名付け親は、谷川が下る山中の那須集落に母親と暮らす岡崎隆則さん(68)。3年前、半世紀ぶりに戻った古里の住民はわずか4人になっており、「消滅集落」との声も漏れた。「何とか元気づけたい」。澄んだ湧き水と、かつて遊んだ秘境を売りだそうと発起した。

太田川上流に注ぐ那須川沿いの急坂を車で上ると、木造の旧校舎が立つ小さな広場に着く。滝へは、家や田畑の脇を抜けて雪の林道の先にある登山口を出発した。

積雪は膝の下くらい。青空がのぞく。一帯は戦後に林業で栄え、名残の杉木立が白い斜面に影を映す。材木を運び出すのに使った道を伝い、硬い雪の斜面を横切り、尾根と谷を交互に越えていく。2時間で滝口上部のせせらぎに出合った。

合併前の戸河内町史の村境図に「三つ滝」と記された三段滝の最上部。下っていくと、水の流れ落ちる音が大きくなった。慎重に岩場を渡り、足場を探る。しぶきの舞う中段の滝つぼに立つと、岩肌に青みがかった氷柱が張り付いていた。傾く日が差し込んだ。

昨年末、岡崎さんと川をさかのぼるルートで下見した。自らがやぶを刈り、木橋を架けて歩けるようにしたという。滑り台のようなナメラや、石段の滝もあり「大小連なって落差100メートル以上。季節ごとに絶景を楽しめる」と胸を張る。この隠れ滝を昨秋のトレイルレースでコースに入れた松田孝志さん(55)=廿日市市=は「水の音を聞きながら約400人が駆け降りた」と振り返る。

豊かな水は那須の命だ。集落奥で湧き出る水が山中の浄化槽を経て、5世帯7人を潤す。「あふれるほどでありがたい」と、昨秋から住む地域おこし協力隊の米田新吾さん(57)。水を求めての移住者もいる。長老の岡田秋人さん(88)は「代々大切にしてきた水と滝のおかげで集落が息を吹き返しそう」と笑顔を見せた。

(写真と文・安部慶彦)

  • 那須集落を歩く米田さん(左)、岡田さん(中)、岡崎さん。「消滅集落」といわれた山里が変わりつつある

  • 三つ滝の中段。午後の太陽が滝口の上で輝いた

  • 訪れるルートを整備した「那須の隠れ滝」を案内する岡崎さん

  • 雪の斜面を横切るように進んでいく

  • 雪に覆われた岩場をゆっくりと下る。三つ滝中段の滝つぼへ向かう

  • 湧き水を集めた最上部の浄化設備。那須の住民が戦後に設置し、管理を続けてきた

  • 那須集落の石垣の段々に積もる雪。冬場は集落を離れる住民もいて、静けさに包まれていた

  • 林業で栄えた地域の歴史を感じさせる杉木立

  • 年明けの寒波で大雪に見舞われ、除雪作業に追われる岡田さん

  • 那須集落の入り口にある案内板。自由にくむことができる「那須の名水」(手前右)は冬でも凍らない

  • 軒下で寒風を浴びる漬物用の大根

  • 三つ滝の上段。周りの谷からも流れ込み、水量が増えていく(小型無人機から)

  • 滑り台のような緩い傾斜が約100㍍にわたって続くナメラ滝

  • 「那須の名水」のそばで話す岡田さん㊧、米田さん㊥、岡崎さん。奥左は木造の旧校舎

  • 山腹にぽっかりと開けた那須集落

 

第4回【JR可部線の旧田之尻駅】
流域支えた鉄路 余韻今も
(広島県安芸太田町)

広島県安芸太田町加計の町から太田川沿いを車で下流へ10分余り。津浪つなみ洞門のカーブを抜けると、右手の川向こうに小箱のような建物が見える。橋を渡ってみた。「たのしり」と書かれた地域の案内柱が立ち、こけむしたホームが建物の脇に延びていた。

川端の旧田之尻駅は水流の音や小鳥のさえずりが響く。JR可部線のうち、この駅を含め非電化だった可部(広島市安佐北区)―三段峡(安芸太田町)間46・2キロが廃止されたのは2003年12月1日。ディーゼルカーは姿を消し、今は鉄道ファンがたまに訪れるくらいという。

時を止めた駅舎の壁には時刻表や連絡用の電話機が残る。停車位置を示す標識、丸いミラーも歴史を感じさせ、単線のトンネル跡が鉄路の余韻を醸す。

「駅」の世話を60年近く続ける住民に出会った。すぐ隣に住む伊賀昭造さん(94)。竹ぼうきで周りを掃いたり草を刈ったり。「生活を支えてくれた可部線。その灯を完全に消したくない」と川面を見やった。

田之尻地区は旧筒賀村のほぼ東端に位置する。国鉄時代の昭和29(1954)年3月に加計駅まで延伸された2年後、「筒賀停車場」として出発。一つ下流側の旧坪野駅(同町)との間には、1954年にこの地で国鉄の敷設総延長が2万キロを突破した記念碑が立つ。

「田之尻駅」と改名したのは、三段峡まで開通した69年7月。しかし、陰陽を結ぶ一大計画は80年に凍結された。可部線は太田川流域の物流を担い住民や観光客を運び続けたが、車社会の到来や過疎化の波を受けた。民営化後の98年、JR西日本は赤字を理由に非電化区間の廃止を打ち出す。

沿線や都市の住民とともに田之尻でも存続運動を繰り広げた。駅前に蒸気機関車の模型を飾り、井仁の棚田の最寄り駅をアピールした。地区の祖母の家へ可部線で何度も通ったという広島市中区の会社員釈迦郡しゃかごおり一正さん(48)は「田之尻駅は可部線で一番小さな駅。役割を終えてもローカル線の雰囲気そのものです」。

(写真と文・安部慶彦)

  • 時刻表や木製のベンチがそのままの駅舎。目の前を流れる太田川に朝日が差した(魚眼レンズ使用)

  • ホームのミラーに映る伊賀さん。大粒の雪が舞っていた

  • 使われることのない連絡用の電話

  • 雪が降った日の翌日。ホームで昔を思い出す。可部線の現役当時は冬場の雪かきが日課だった

  • 無人駅だったことを物語る切符の回収箱。雪化粧した川の流れる音が響いた

  • 上空から見た旧田之尻駅(手前)と太田川の下流方面(小型無人機から)

  • 憩いの場でもあった駅には、時折、住民たちが立ち寄る

  • 廃止当時の時刻表が残る。鏡には川面が映っていた

  • 旧田之尻駅近くに残る鉄橋。可部線の廃止区間は鉄橋の多さも特徴だった

  • レールは撤去されており、砂利の線路跡が歴史を伝える

  • 旧田之尻駅と旧坪野駅との間に立つ、国鉄の敷設総延長2万㌔突破の記念石碑

  • 太田川中流域の谷間を縫うように走っていた可部線。あちこちに痕跡がある

第3回【恐羅漢山の樹氷】
雪深い奥山 自然の造形美
(広島県安芸太田町)

強い寒波がヤマを越えた年初の連休明け。太田川源流域にある広島県最高峰の恐羅漢山(安芸太田町、1346メートル)を目指した。

霧の中、新雪に沈むかんじきを一歩一歩進める。北側の尾根で視界が少し開けた。杉やヒノキの三角帽が厚い氷をまとい、ブナ林も凍り付いた枝が天を仰ぐ。山頂の標柱の目盛りは積雪2メートル近い。雲間から一瞬、陽光が差し込む。雪と氷の造形美に引き込まれた。

数日後、好天を念じて再登頂した。「これだけ大きな樹氷は久しぶり」。万全の冬山装備で訪れた、広島市安佐北区の荒木静江さん(71)はぐるりと見渡した。

冬に日本海からの烈風を浴びるこの奥山一帯は、夏場の多雨もあって降水量が県内で最も多い。島根県境に位置し、北東―南西の断層に沿って尾根と谷が走る。雪解け水は東側山麓の横川(よこごう)川から三段峡のある柴木川を経て太田川へ流れる。

静寂の山頂。眼下にスキー場が広がり、麓に5世帯6人が暮らす横川集落がある。古くは鉄山業や運搬で生計を立てた。戦後、木材需要の高まりで一帯は皆伐された。細るなりわいと離村に追い打ちを掛けたのが、1963(昭和38)年1月の「38豪雪」だ。気象台の記録では広島県芸北町(現北広島町)八幡で積雪350センチ。同月31日の中国新聞夕刊の「雪だより」は恐羅漢450センチと記す。

一方で、集落の危機を救ったのも雪の多さだった。地元有志が67年にスキー場を開設。73年には隣に国営(後に統合)もできた。林道整備や中国自動車道の開通で九州からの客も迎え入れた。こうした変遷は、広島修岳会名誉会長の瀬尾幸雄さん(90)=佐伯区=の著作「山の人生60年恐羅漢の山里を訪ねて」に詳しい。

近年は暖冬傾向で、新型コロナ禍の苦境も続く。父から継いだ民宿を10年ほど前にたたんだ隠居義明自治会長(73)は「自然の怖さを知ると同時に、その恩恵を受け続ける地域だ」と語る。

(写真と文・安部慶彦)

  • 山頂付近の木々は雪と氷を厚くまとっていた

  • 晴れ間が広がり、青空の下で樹氷が輝いた

  • 広島、島根(手前)県境の恐羅漢の山頂付近。奥右は内黒峠(小型無人機から)

  • 新雪を踏み締め、樹林帯を進む

  • 太陽の光を浴びた一滴が雪解け水となる

  • 新雪にけものの足跡が残る

  • 山頂を訪れた登山者。安全な計画と万全な装備は欠かせない

  • 太陽の光が、雪と氷の世界を少しずつ解かしていく

  • 頭をのぞかせた山頂の標柱が雪の深さを物語る

  • 新雪の斜面を山スキーで登っていく

  • 深入山(奥左)もすっかり雪化粧していた

  • 恐羅漢山頂付近で樹氷をカメラに収める登山者

  • リフト頂上。絶景を眺めながら滑り降りる

  • スキーヤーやスノーボーダーでにぎわう恐羅漢スノーパーク

  • 今冬は天然雪に恵まれ、リフト乗り場に列ができた

  • 民宿やペンションが立つ横川集落を歩く隠居義明自治会長

第2回【宇賀大橋】
長さ140メートル 床板の通学路
(広島市安佐北区)

「お帰り。さあ渡ろうね」。黄色い帽子の児童と愛犬連れの母親たちが、枕木のような木材を敷き詰めてある床板を踏みしめる。赤茶けた鉄製の手すりを冷たい風が吹き抜けていく。皆で歩を早めると、大きなつり橋が小刻みに揺れた。

山あいの広島市安佐北区安佐町久地。蛇行する太田川沿いに20世帯ほどが暮らす集落の名を冠した「宇賀大橋」が昨春から、約10年ぶりに通学路となった。地元の久地小が5キロ離れた飯室小に統合して児童はバス通学となり、朝夕、4人が対岸の国道まで行き来する。5年生の斉藤乙葉さん(11)は「冬の川は透き通っていてきれい」と笑顔を見せた。

宇賀地区は古くは林業で栄え、材木などを運ぶ拠点だった。川舟も行き交い、船宿が並んだという。市道である宇賀大橋は太田川に現在残る主な四つのつり橋のうち最も長い約140メートル。1953年に完成した。近くで育った福本五雄さん(78)は「昔は両岸をつなぐワイヤをたぐって舟で渡った」と懐かしむ。

戦後、太田川流域は人口が増え、地元の寄付もあって多くのつり橋が架けられた。車社会になると、鉄骨製に代わっていく。宇賀大橋は補修を重ねて元の姿を保ったが、JR可部線廃線で近くの小河内駅が閉鎖されるなどして役割は小さくなった。歩いて渡るのは主に子どもとお年寄りだ。

コンクリート製の主塔がそびえ、木床でも1トンまでの車は渡っていく独特の風景。大橋への愛着と地域の歴史を伝えようと、自治会と公民館が企画した町歩きは新型コロナウイルスによって取りやめた。橋の点検もする宇賀自治会の大田法隆会長(68)は「約70年、暮らしと川とともにあるつり橋。その役割を胸に刻んでほしい」と願う。

(写真と文・安部慶彦)

  • 宇賀大橋に積もった雪をシャベルで取り除く大田会長

  • 木製の床板だが、1㌧までの車両は通行できる

  • 帰り道に手をつないで歩く親子

  • 郵便局の赤い車も橋を渡って地域を巡る

  • 雪の舞う朝、子どもたちは足早に宇賀大橋を渡った

  • 右岸側の橋脚の周りは大きな岩場になっている

  • 宇賀大橋と山裾に並ぶ民家が川面に映り込んだ

  • 雪の朝、足跡の残るつり橋に朝日が差し込む

第1回【デルタの輝き】
水も電気も 暮らしの基盤
(広島市)

島々があかね色に包まれると、広島市街地は輝き始める。このデルタを生んだ太田川は6本に分かれて街中を縫い、瀬戸内海へ流れ込む。師走の夕刻、ヘリコプターから見渡すと、放射状に伸びる川筋が残照に浮かび上がった。暮らしと命を支える動脈に思えた。

恵みの最たるは水だ。田畑や集落を潤し、上水道は1899(明治32)年の給水開始以来、都市の生活と産業の基盤となった。現在は広島市をはじめ呉市や江田島市など島しょ部の計約155万人が享受する。

広島県西部の冠山(廿日市市吉和)一帯を源流とする1級河川。豊かな水量は中国地方で指折りの多雨に由来する。断層沿いから谷間を東へ曲流し、広島市北部で南へカーブ。延長は103キロに及ぶ。73もの支流を足すと流域面積は約1710平方キロと、県全体の2割を占めている。古くから農林業や船運、漁などの恩恵をもたらしてきた。

明治・大正期からは殖産や軍需を背景に電源開発が推し進められ、今も中国5県の水系で最多の15の水力発電所が稼働する。最大出力は計約83万キロワット。鳥取県の旭川と日野川水系の計約123万キロワットに次ぎ、5県全体の3割に当たる。戦後は大規模ダムも建設され、広島市や沿岸諸都市に電気を送る役割も持つ。

光輝く「水の都」は、400年前の毛利氏による築城から歴史を刻む。今は川沿いにカフェも並び、原爆ドーム前を遊覧船が行き交う。新型コロナウイルス禍で時は止まったようだが、川辺を散策する人の姿は増え、身近な川との距離が近づいて見える。河岸緑地で夏に初めて音楽の催しを企画した同市安佐南区の高田敬子さん(31)は「川の魅力で人がつながる。それが広島の良さです」と話す。

(写真と文・安部慶彦)

  • 広島湾上空から見た市街地のデルタ

  • 夕日に照らされて浮かび上がる広島市街地のデルタ

  • 源流域に広がる原生林

  • 廿日市市吉和の冠山山頂付近が太田川の源流となる

  • 冠山山頂一帯の太田川源流

  • 立岩ダム下部の太田川上流域

  • 中流でカーブを重ねる太田川

  • 中流で大小のカーブを重ねる太田川

  • 水力発電所や旧JR可部線高架が残る太田川中流域

  • 陽光に輝く太田川

プロローグ【再生のシンボル】
都市の浅瀬 命つなぐアユ
(広島市安佐南・安佐北区)

オレンジ色に体を染めた無数のアユが浅瀬を群れ泳ぐ。産卵を控えて警戒心は薄まるようで、レンズの前を平気で行き交う。11月上旬、広島市安佐南、安佐北両区にまたがる太田川下流域。両岸に住宅やマンションが並ぶ都市の川にアユ再生の兆しは確かにあった。

川と海をほぼ1年で行き来するアユ。太田川では9月下旬~11月上旬に下流で産卵して数日でふ化し、流れに任せて河口へ下る。海で育ち、翌春に川を上って力を蓄え、命をつなぐ。

「40年ほど前は産卵期にひと晩の漁で船が沈みそうになる日もあった」。近くの川漁師谷口正博さん(80)は懐かしむ。ここ数年、産卵のため川を下る落ちアユの魚影が濃くなり、さおを振る姿も増えたという。

アユ漁の浮沈は太田川の歩みと重なる。水系一帯には明治末期からの電源開発によるダムや堰(せき)が多く、戦後は広島湾の埋め立ても続いた。災害を防ぐ護岸のコンクリート化も進み、アユは減少の一途をたどった。

市は2014年、太田川漁協(安佐北区)や国、広島県とアユ再生に乗り出した。産卵場を整え、禁漁区域も広げた。同漁協の漁獲量は15年度、ピークの50分の1の6万7千匹にまで落ち込んだが、近年は回復。今季は下流に設けた産卵場周辺で推定約30万匹の親魚の大群を確認した。

「アユは太田川と広島湾の再生のシンボルだ」と同漁協の山中幸男組合長(74)。「ここ数年、春に堰の魚道をさかのぼる天然アユが増え、秋に産卵するサイクルができた。川と人が関わることで、アユ復活へ向かいつつある」と期待する。

(写真と文・安部慶彦)

  • アユを捕獲するミサゴ

  • 産卵場を整備する太田川漁協の組合員たち

  • アユをねらうカワウの大群

  • 太田川漁協の中間育成施設

  • アユの産卵場を調べる広島市の職員たち

  • 産卵場を整備する太田川漁協の組合員たち

  • 産卵場を整備する太田川漁協の組合員たち

  • カワウを追い払うため花火を打ち上げる太田川漁協の組合員

  • 太田川下流域の護岸周辺に集まったアユなど