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デルタに発展した広島にとって

「母なる川」である太田川。

標高1339メートルの冠山一帯の森を源流に、

中国山地を南東方向へ曲流を重ね、広島湾に注ぐ。

相次ぐ災害やコロナ禍で

自然の豊かさや脅威が再認識されるいま、

全長103キロの太田川と流域を訪ねて、

その恵みと営みを見詰める。

第12回【旧亀山発電所】
明治の建物 水害史伝える
(広島市安佐北区)

明治末に建てられた、れんが造りの旧亀山発電所。出入り口横の柱(右側)に洪水の記録が残る。現在は太田川漁協の事務所が入る。窓越しに、増水した太田川が見えた

ほの暗いれんが造りの建物にツバメが戻ってきた。出入り口そばの壁。赤いペンキを引いた7本の横線が垂直方向に並び、高さと年月が記してある。「昭和18(1943)年9月3・8メートル、昭和20年9月3・3メートル、昭和47年7月…」

水力発電所がひしめく太田川水系で小規模を除き最古参の「旧亀山発電所」(広島市安佐北区可部町)は洪水の歴史を刻む。アーチ型の窓越しに、早い梅雨入りによる濁流が見えた。

草木が覆う赤れんがの洋風建物は広島電灯会社(現中国電力)が1912(明治45)年に完成させた。英国製の発電機3基を備え、山腹の水路を通じて水を集めた。川端の宿命である水との闘いを乗り越えたが、72(昭和47)年の「47水害」を受けて翌年に廃止された。その後、太田川漁協の事務所になった。

「かつては家も流された地域。発電所の2階まで漬かったこともある」。近くに住む上川秀彦さん(83)は水の怖さを知る。出水時には人力で発電機を台に引き上げた逸話も伝わる。

壁の最初の記録は「大正8(1919)年7月」。太田川工事事務所(現・国土交通省太田川河川事務所)の「太田川史」は「可部付近の被害も大きく」と記す。被爆直後の広島を襲った枕崎台風、その5年後と翌年に続いたキジヤ、ルース両台風、47水害や「平成17(2005)年9月」の台風14号など、三つの時代の水害に耐えた。

暴れる太田川の改修は昭和初期に始まり、戦後の放水路建設など下流のデルタに重点が置かれた。中流域や大半の支流は47水害後に主な対策が進んだ。

近年、気候変動による豪雨被害が深刻さを増す。太田川流域でも2014年に広島市で77人が犠牲になった広島土砂災害が起き、18年の西日本豪雨では可部で合流する三篠川で観測史上最大の流量となった。家や田畑が漬かり、同区白木町のJR芸備線第1三篠川橋梁(きょうりょう)は流されて復旧に1年余りを要した。梅雨の今もあちこちで重機の音が響く。

 「歴史の証言者(物)」とされ来年が完成110年の旧亀山発電所は、市の道路拡幅で取り壊しの計画がある。同漁協の山中幸男組合長(74)は「忘れてはならない水害の記録は何とか保存したい」と考えている。

(写真と文・安部慶彦)

  • 西日本豪雨で流され、復旧した第1三篠川橋梁を渡るJR芸備線。同川沿いでは護岸整備や橋の架け替えが続いている

    西日本豪雨で流され、復旧した第1三篠川橋梁を渡るJR芸備線。同川沿いでは護岸整備や橋の架け替えが続いている

  • 西日本豪雨で流され、復旧した第1三篠川橋梁を渡るJR芸備線。同川沿いでは護岸整備や橋の架け替えが続いている
  • 赤れんが造りの洋風建物が目に留まる旧亀山発電所。太田川のすぐそばで水害を乗り越えてきた。広島市の道路拡幅で取り壊す計画がある

    赤れんが造りの洋風建物が目に留まる旧亀山発電所。太田川のすぐそばで水害を乗り越えてきた。広島市の道路拡幅で取り壊す計画がある

  • 赤れんが造りの洋風建物が目に留まる旧亀山発電所。太田川のすぐそばで水害を乗り越えてきた。広島市の道路拡幅で取り壊す計画がある
  • 発電機の分解・組み立て作業に使ったクレーン(手前)や、漁協の資機材がある建物内部

    発電機の分解・組み立て作業に使ったクレーン(手前)や、漁協の資機材がある建物内部

  • 発電機の分解・組み立て作業に使ったクレーン(手前)や、漁協の資機材がある建物内部
  • 建物外壁には、水害の記録を写し取った説明板がある。広く知ってもらおうと太田川漁協と太田川河川事務所が掲示した

    建物外壁には、水害の記録を写し取った説明板がある。広く知ってもらおうと太田川漁協と太田川河川事務所が掲示した

  • 建物外壁には、水害の記録を写し取った説明板がある。広く知ってもらおうと太田川漁協と太田川河川事務所が掲示した
  • 太田川漁協の看板が掛かる旧亀山発電所正面

    太田川漁協の看板が掛かる旧亀山発電所正面

  • 太田川漁協の看板が掛かる旧亀山発電所正面
  • 横線で示す洪水の記録で最も古いのは「大正8年7月」(中央)。下は昭和26(1951)年のルース台風の水位

    横線で示す洪水の記録で最も古いのは「大正8年7月」(中央)。下は昭和26(1951)年のルース台風の水位

  • 横線で示す洪水の記録で最も古いのは「大正8年7月」(中央)。下は昭和26(1951)年のルース台風の水位
  • 3基あった英国製水力発電機のうち一つが残り、説明板もある

    3基あった英国製水力発電機のうち一つが残り、説明板もある

  • 3基あった英国製水力発電機のうち一つが残り、説明板もある
  • 頭上よりはるか上に洪水の歴史が刻まれている

    頭上よりはるか上に洪水の歴史が刻まれている

  • 頭上よりはるか上に洪水の歴史が刻まれている
  • 上空から旧亀山発電所を見ると、草木に覆われた貯水池跡が建物の山側に並ぶ(小型無人機から)

    上空から旧亀山発電所を見ると、草木に覆われた貯水池跡が建物の山側に並ぶ(小型無人機から)

  • 上空から旧亀山発電所を見ると、草木に覆われた貯水池跡が建物の山側に並ぶ(小型無人機から)
  • 太田川㊧、根谷川㊥、三篠川の三川合流点。奥左が可部の町(小型無人機から)

    太田川㊧、根谷川㊥、三篠川の三川合流点。奥左が可部の町(小型無人機から)

  • 太田川㊧、根谷川㊥、三篠川の三川合流点。奥左が可部の町(小型無人機から)
  • 三篠川沿いの広島市安佐北区井原地区では今も大規模な護岸工事が続く

    三篠川沿いの広島市安佐北区井原地区では今も大規模な護岸工事が続く

  • 三篠川沿いの広島市安佐北区井原地区では今も大規模な護岸工事が続く
  • 蛇行する三篠川中流域

    蛇行する三篠川中流域

  • 蛇行する三篠川中流域
  • 広島県安芸太田町坪野地区の太田川沿いにある治水遺構「水刎(はね)」。江戸末期に築かれたとされる(小型無人機から、3枚を合成)

    広島県安芸太田町坪野地区の太田川沿いにある治水遺構「水刎(はね)」。江戸末期に築かれたとされる(小型無人機から、3枚を合成)

  • 広島県安芸太田町坪野地区の太田川沿いにある治水遺構「水刎(はね)」。江戸末期に築かれたとされる(小型無人機から、3枚を合成)

第11回【渓流釣り】
熟練のさお 新緑に染まる
(廿日市市吉和)

小川川の毛針専用区で、川虫が飛び交う岩の間にキャスティングする柿木さん。新緑に包まれ、自然と一体になる

 まばゆい新緑に覆われた谷川は大小の岩を縫い、淵と瀬を重ねる。こぶのような大岩の間を虫が飛び交っていた。深みの陰に魚影が浮かぶ。かすかな音とともにライン(釣り糸)が放たれ、虫に似せた毛針が水面を流れる。静寂の中、さおが大きくしなった。

 太田川の源である廿日市市吉和の冠山(1339メートル)。北側の中津谷(なかつや)渓谷一帯は広島県内屈指の渓流釣りポイントだ。中でも小川川(おがわがわ)と称する中津谷川支流の約4キロは、毛針で狙うフライフィッシングの専用区(予約制)。1995年、愛好者の要望を受けて地元漁協などが設けた。釣った魚を川へ戻すキャッチ・アンド・リリースに徹する。

5月初旬、専用区で夫婦に出会った。会社員の柿木一義さん(58)と美千枝さん(58)。交互に、長いラインをむちのように操って毛針を打ち込む。一義さんの一手に、勢いよく食い付いたのは渓流の女王と呼ばれるサケ科のアマゴ。体に朱点をちりばめた美麗な姿が透き通る水に映えた。この日はゴギも活発だった。

キャリア約30年の一義さんは「魚が何を好むか、季節や生態を考えて毛針を作るのも楽しみ」。美千枝さんも「自然と一体」の魅力にはまり、岩国市から夫婦で通って5年になる。「吉和は原生のブナもあり、この時季の川は特に素晴らしい」と口をそろえた。

 地元では太田川を「吉和川」と呼ぶ。吉和川漁協によると、この地の渓流釣りを全国に広めたのは西村文甫(ふみほ)さん(80)。30歳を前に広島市から移住し、69年に吉和で養魚場を開いた。自ら釣ったアマゴの卵を絞り、人工ふ化から稚魚の成育まで手掛けた。養殖組合をつくり、「アマゴの里」の土台を築いた。

趣味の釣りが高じて6年前、大阪から一家で移り住んだ則武一生さん(55)は「専用区以外でも、天然アマゴが多く生息する。毛針やルアー、餌釣りまで幅広く楽しめる」と紹介する。

「手つかずの自然は減ったけれど、魚が命を育む川を見守っていきたい」と西村さん。先達の言う、山川草木に溶け込む渓流釣りの風景が息づいている。

(写真と文・安部慶彦)

  • 体の朱点が鮮やかなアマゴ。予約制の毛針専用区ではキャッチ・アンド・リリースがルールだ

    体の朱点が鮮やかなアマゴ。予約制の毛針専用区ではキャッチ・アンド・リリースがルールだ

  • 体の朱点が鮮やかなアマゴ。予約制の毛針専用区ではキャッチ・アンド・リリースがルールだ
  • 小川川の原生林。大水で根こそぎ流れ出たとみられる木々も若葉を茂らせていた(魚眼レンズ使用)

    小川川の原生林。大水で根こそぎ流れ出たとみられる木々も若葉を茂らせていた(魚眼レンズ使用)

  • 小川川の原生林。大水で根こそぎ流れ出たとみられる木々も若葉を茂らせていた(魚眼レンズ使用)
  • ゴギを釣り上げる柿木一義さん

    ゴギを釣り上げる柿木一義さん

  • ゴギを釣り上げる柿木一義さん
  • 渓谷の水面に新緑が映える

    渓谷の水面に新緑が映える

  • 渓谷の水面に新緑が映える
  • 大小の岩を縫う清流。手つかずの自然が釣り人を誘う

    大小の岩を縫う清流。手つかずの自然が釣り人を誘う

  • 大小の岩を縫う清流。手つかずの自然が釣り人を誘う
  • 夫婦でフライフィッシングを楽しむ柿木一義さん㊧と美千枝さん

    夫婦でフライフィッシングを楽しむ柿木一義さん㊧と美千枝さん

  • 夫婦でフライフィッシングを楽しむ柿木一義さん㊧と美千枝さん
  • 中津谷渓谷の水辺に咲くキシツツジ

    中津谷渓谷の水辺に咲くキシツツジ

  • 中津谷渓谷の水辺に咲くキシツツジ
  • 毛針専用区ではキャチ・アンド・リリースで資源を保っている

    毛針専用区ではキャチ・アンド・リリースで資源を保っている

  • 毛針専用区ではキャチ・アンド・リリースで資源を保っている
  • 水生昆虫を模した毛針。試行錯誤して作るのも楽しみという

    水生昆虫を模した毛針。試行錯誤して作るのも楽しみという

  • 水生昆虫を模した毛針。試行錯誤して作るのも楽しみという
  • 光が差し込むと、清流の透明度が増す

    光が差し込むと、清流の透明度が増す

  • 光が差し込むと、清流の透明度が増す
  • 中国山地で標高の高い冷水域に生息するゴギ

    中国山地で標高の高い冷水域に生息するゴギ

  • 中国山地で標高の高い冷水域に生息するゴギ
  • キシツツジに集まるミヤマカラスアゲハ

    キシツツジに集まるミヤマカラスアゲハ

  • キシツツジに集まるミヤマカラスアゲハ
  • カエデの新録が美しい中津谷渓谷でさおを伸ばす

    カエデの新録が美しい中津谷渓谷でさおを伸ばす

  • カエデの新録が美しい中津谷渓谷でさおを伸ばす
  • 透き通った清流を泳ぐアマゴ

    透き通った清流を泳ぐアマゴ

  • 透き通った清流を泳ぐアマゴ
  • 新緑の中津谷渓谷では釣り人が景色に溶け込む

    新緑の中津谷渓谷では釣り人が景色に溶け込む

  • 北広島町鶉木地区の棚田(小型無人機から)

第10回【棚田の水鏡】
湾曲美が紡ぐ景観 後世へ
(広島県安芸太田町井仁)

高瀬堰の魚道の壁を遡上するモズクガニの子たち

おむすびのような形をした山の肩から朝日が顔を出す。空の色は深い藍からオレンジへと移ろい、棚田の水鏡が輝きを増す。卯月(うづき)の早朝。鳥のさえずりとともに井仁の一日が始まる。

田植えを前に、「日本の棚田百選」として知られる広島県安芸太田町の井仁(いに)地区を訪れた。太田川中流域で標高450~550メートル。つづら折りの急坂の先にある狭いトンネルを抜けると、すり鉢状の斜面に大小の田が重なり合う。水は、天上山など周りの山々の四つの谷から引き、田畑を潤してきた。

戦国期の石垣も残り、江戸時代には峠越えの要衝として栄えた。200年以上かけて開かれ、垂直の石積みは今も美しく湾曲する。昼下がり、階段状の水田には代かきの点描が描かれていた。「狭く複雑な地形。機械が入れない所も多い」と片山俊司さん(76)。美田を守る自負をのぞかせた。

ただ、1960年代に約200人を数えた住民は現在、約50人。棚田百選に指定された99年当時に324枚だった水田は約180枚までに減った。20年前の同じ頃、イノシシなどの獣害を防ぐために集落の外周4キロをフェンスで囲み、応援団の都市住民との交流を始めた。近年は棚田オーナー制度に加え、大学と連携した学生の受け入れや、環境活動に力を入れる企業との棚田管理にも取り組む。

住民グループ「いにぴちゅ会」の河野司会長(75)は「新型コロナによって厳しい状況だが、これからも地区外の協力なしに棚田の維持は難しい」と話す。

大型連休中の5月1日。田植えが斜面のあちらこちらで始まり、片山さんも苗を手で植えていた。昨年は地区外の親族らが帰省を自粛したが、今年は4人が戻ってくれたという。

唯一のカフェから談笑が聞こえた。元町地域おこし協力隊員でオーナーの友松裕希さん(32)は「棚田は人と自然が織りなす景観。癒やしを求める人は多い」。自らも田んぼ1枚の世話をしながら、井仁の棚田の魅力を発信している。

太田川流域でも細る棚田文化。井仁で20代続く正音寺住職の大江真さん(70)は「歴史を絶やさず後世に引き継ぎたい」と語る。高台から見える水鏡が、その決意と誇りを映していた。

(写真と文・安部慶彦)

  • ほぼ垂直に立つ石垣が曲線美を描く。まばゆい新緑の中、田植えに汗を流す住民たち

    ほぼ垂直に立つ石垣が曲線美を描く。まばゆい新緑の中、田植えに汗を流す住民たち

  • ほぼ垂直に立つ石垣が曲線美を描く。まばゆい新緑の中、田植えに汗を流す住民たち
  • 早朝、朝日に輝く井仁の棚田のほとりに座る2人

    早朝、朝日に輝く井仁の棚田のほとりに座る2人

  • 早朝、朝日に輝く井仁の棚田のほとりに座る2人
  • 上空から撮影すると、休耕田が増えているのが分かる(小型無人機から)

    上空から撮影すると、休耕田が増えているのが分かる(小型無人機から)

  • 上空から撮影すると、休耕田が増えているのが分かる(小型無人機から)
  • 夕方、田んぼの水の様子を見て回る。朝とともに欠かせぬ日課だ

    夕方、田んぼの水の様子を見て回る。朝とともに欠かせぬ日課だ

  • 夕方、田んぼの水の様子を見て回る。朝とともに欠かせぬ日課だ
  • 高台のカフェの窓越しに、すり鉢状の棚田を見渡せる

    高台のカフェの窓越しに、すり鉢状の棚田を見渡せる

  • 高台のカフェの窓越しに、すり鉢状の棚田を見渡せる
  • 夜明け前、棚田の水鏡が深い青色に染まっていた

    夜明け前、棚田の水鏡が深い青色に染まっていた

  • 夜明け前、棚田の水鏡が深い青色に染まっていた
  • 青空の下、苗を一つ一つ手で植えていく

    青空の下、苗を一つ一つ手で植えていく

  • 青空の下、苗を一つ一つ手で植えていく
  • 棚田の水面に満月が映り込む

    棚田の水面に満月が映り込む

  • 棚田の水面に満月が映り込む
  • 田植えを手伝う兄弟

    田植えを手伝う兄弟

  • 田植えを手伝う兄弟
  • 環境学習に取り組む広島市内の子どもたちが久々に集落を訪れ、地域の人たちと交流した

    環境学習に取り組む広島市内の子どもたちが久々に集落を訪れ、地域の人たちと交流した

  • 環境学習に取り組む広島市内の子どもたちが久々に集落を訪れ、地域の人たちと交流した
  • 200年以上をかけて開墾された井仁の棚田。ほぼ垂直の石積みが急勾配を物語る

    200年以上をかけて開墾された井仁の棚田。ほぼ垂直の石積みが急勾配を物語る

  • 200年以上をかけて開墾された井仁の棚田。ほぼ垂直の石積みが急勾配を物語る
  • 夜明け前の一瞬、東の空と棚田の水面が青色を帯びる

    夜明け前の一瞬、東の空と棚田の水面が青色を帯びる

  • 夜明け前の一瞬、東の空と棚田の水面が青色を帯びる
  • 太田川沿いに連なる安芸太田町上殿地区の水田(小型無人機から、3枚を合成)

    太田川沿いに連なる安芸太田町上殿地区の水田(小型無人機から、3枚を合成)

  • 太田川沿いに連なる安芸太田町上殿地区の水田(小型無人機から、3枚を合成)
  • なだらかな斜面の上殿地区。田んぼの水面に住宅が映っていた

    なだらかな斜面の上殿地区。田んぼの水面に住宅が映っていた

  • なだらかな斜面の上殿地区。田んぼの水面に住宅が映っていた
  • 北広島町鶉木地区の棚田(小型無人機から)

    北広島町鶉木地区の棚田(小型無人機から)

  • 北広島町鶉木地区の棚田(小型無人機から)
  • 太田川沿いの安芸太田町土居でも、田植えの準備が進んでいた

    太田川沿いの安芸太田町土居でも、田植えの準備が進んでいた

  • 太田川沿いの安芸太田町土居でも、田植えの準備が進んでいた

第9回【稚ガニの関所越え】
魚道横ばい 難所の堰遡上
(広島市安佐北区、安佐南区)

高瀬堰の魚道の壁を遡上するモズクガニの子たち

甲羅の両側に並ぶ細長い脚で、水際のコンクリート壁を横ばいに進む。体長1~3センチのモクズガニの子たち。長さ86メートルにわたる緩やかな階段状の魚道をさかのぼる姿はたくましい。

太田川の河口から13・6キロの広島市郊外にある高瀬堰(ぜき)=安佐北区、安佐南区。今春、大量の稚ガニが遡上(そじょう)していると聞いた。太田川漁協の中谷春行理事(71)は「ここ2、3年、堰を上る姿が増えたが、これほど多いのは初めて。数日かけて関所を越える」と話す。

1975年完成の堰は生活や工業用の水をため、治水も担う。川幅約330メートルに並ぶ7門の鋼製ゲートで水量を調節する。魚たちにとっては巨大な壁だ。このため建設時から両端に幅6メートルの魚道を設けてあり、左岸側には舟通しも備える。

川と海を往来する魚類は両側回遊魚と呼ばれ、高瀬堰ではアユやサツキマスなど約10種が見られる。国土交通省太田川河川事務所は毎年、遡上調査を続けてきた。春から初夏までを中心に数日間、魚道の上流側に網を仕掛けて捕獲し、種類やサイズを記録する。

4月中旬の調査を取材した。両側の魚道で午前中に建網を入れ、夕方と翌朝に揚げる。左岸で初日はアユ3匹など少なめながら、翌朝はウグイ2千匹が入った。「活発な春の川です」と調査員。モクズガニは3月分を含む速報値(4日間)で計607匹と、昨年の計232匹を大きく上回った。

元来、太田川は電源開発によるダムや堰が多く、魚類の遡上を阻んでいた。中流の津伏取水堰(同市佐伯区湯来町)より上流は特に難所続き。国は93年からモデル事業として、河口から70・8キロまでの本流にある発電用堰や農業用取水門の計12カ所を対象に魚道の新設や改良を進めた。広島県も協力し、延長103キロのほぼ8割に当たる、立岩ダムの約6キロ下流(安芸太田町)まで上れるようになった。

それから20年余り。県野生生物保護推進員の内藤順一さん(70)=府中町=は「遡上する魚種や数は川の豊かさの指標だ。ただ、魚道付きだからと堰が造られ、実際には上れないケースもある。継続的な点検や管理が必要だ」と訴える。

(写真と文・安部慶彦)

  • 上流側から見た高瀬堰左岸。左2本の水路のうち右側が魚道で左側が舟通し

    上流側から見た高瀬堰左岸。左2本の水路のうち右側が魚道で左側が舟通し

  • 上流側から見た高瀬堰左岸。左2本の水路のうち右側が魚道で左側が舟通し
  • 高瀬堰の魚道を遡上するモクズガニの子

    高瀬堰の魚道を遡上するモクズガニの子

  • 高瀬堰の魚道を遡上するモクズガニの子
  • 水中から現れて、魚道の壁面を群れになって移動するモクズガニ

    水中から現れて、魚道の壁面を群れになって移動するモクズガニ

  • 水中から現れて、魚道の壁面を群れになって移動するモクズガニ
  • 高瀬堰の魚道調査で捕獲されたウグイの群れ

    高瀬堰の魚道調査で捕獲されたウグイの群れ

  • 高瀬堰の魚道調査で捕獲されたウグイの群れ
  • 魚道の水面下で壁面に張り付くモクズガニ

    魚道の水面下で壁面に張り付くモクズガニ

  • 魚道の水面下で壁面に張り付くモクズガニ
  • 下流側から見た高瀬堰。奥左は安佐南区八木地域の広島土砂災害被災地に建設された砂防ダム群

    下流側から見た高瀬堰。奥左は安佐南区八木地域の広島土砂災害被災地に建設された砂防ダム群

  • 下流側から見た高瀬堰。奥左は安佐南区八木地域の広島土砂災害被災地に建設された砂防ダム群
  • 魚道の調査用網に入ったアユ(中央下)やモクズガニ(右端)、ウグイ(中央)

    魚道の調査用網に入ったアユ(中央下)やモクズガニ(右端)、ウグイ(中央)

  • 魚道の調査用網に入ったアユ(中央下)やモクズガニ(右端)、ウグイ(中央)
  • 魚道の上流側に建網を設置する調査員

    魚道の上流側に建網を設置する調査員

  • 魚道の上流側に建網を設置する調査員
  • 遡上調査で捕獲した生き物の種類や大きさを記録する

    遡上調査で捕獲した生き物の種類や大きさを記録する

  • 遡上調査で捕獲した生き物の種類や大きさを記録する
  • モクズガニの子が魚道の壁にびっしりと集まった

    モクズガニの子が魚道の壁にびっしりと集まった

  • モクズガニの子が魚道の壁にびっしりと集まった
  • 捕獲した生き物を運ぶ調査員

    捕獲した生き物を運ぶ調査員

  • 捕獲した生き物を運ぶ調査員
  • 太田川中流域にある津伏取水堰。魚道は当初、中央部だけだったが、手前の左岸側に追加された

    太田川中流域にある津伏取水堰。魚道は当初、中央部だけだったが、手前の左岸側に追加された

  • 太田川中流域にある津伏取水堰。魚道は当初、中央部だけだったが、手前の左岸側に追加された
  • 流れを弱める「コ」の字型のコンクリート柱が中央に並ぶ。遡上する魚が休めるという

    流れを弱める「コ」の字型のコンクリート柱が中央に並ぶ。遡上する魚が休めるという

  • 流れを弱める「コ」の字型のコンクリート柱が中央に並ぶ。遡上する魚が休めるという
  • 高瀬堰に居着くオオサンショウウオ

    高瀬堰に居着くオオサンショウウオ

  • 高瀬堰に居着くオオサンショウウオ
  • 高瀬堰近くの太田川が夕日を浴び、黄金色に輝いた

    高瀬堰近くの太田川が夕日を浴び、黄金色に輝いた

  • 高瀬堰近くの太田川が夕日を浴び、黄金色に輝いた
  • 高瀬堰の魚道をさかのぼるアユ

    高瀬堰の魚道をさかのぼるアユ

  • 高瀬堰の魚道をさかのぼるアユ
  • 魚道の段差をジャンプして越えるアユ

    魚道の段差をジャンプして越えるアユ

  • 魚道の段差をジャンプして越えるアユ
  • 高瀬堰を遡上するアユの群れ

    高瀬堰を遡上するアユの群れ

  • 高瀬堰を遡上するアユの群れ

第8回【再生の桜並木】
河岸彩る 平和のシンボル
(広島市)

太田川沿いの桜並木

淡いピンクのベールに縁取られた広島市中区の本川沿い。対岸のなだらかな芝生広場では人々が憩い、干満の大きな川面を遊覧船が行き交う。下流の原爆ドーム前で分かれる元安川にかけて、戦後、街と緑の再生を願って植えられた桜並木。いつもより早く3月下旬に満開を迎えた。

樹木医の堀口力さん(75)=西区=によると、原爆で市中心部の木々は大半が失われた。全国からイチョウやクスノキなどが寄せられた「供木運動」もあって徐々に、焼け野原は緑を取り戻していく。ただ、「管理の難しいソメイヨシノは当初少なかった」という。

戦前、広島で桜の名所といえば、工兵橋南西の「長寿園」だった。跡地付近の堤に立つ碑文は、明治末期に地元の実業家が東京から桜の苗木を取り寄せ、苦労して一大園地を成したと伝える。露店や座敷も並ぶにぎわいは風物詩だった。この桜の園は爆風に耐えたが、戦後復興に伴う埋め立てによって姿を消す。

デルタ河岸の桜並木の出発は主に、戦後約10年を経て始まった平和記念公園周辺での市民らによる植樹と、1960~70年代の区画整理や再開発だ。本川端に木造家屋が密集していた基町から北側の旧長寿園までの約1・5キロでは、中高層アパート群の建設に合わせてできた河岸緑地にずらりと植えられた。工兵橋から南東へ流れる京橋川の白島側も新名所となった。

堀口さんは「ソメイヨシノは川沿いなど風通しの良い場所で育つ。広島では特に平和や復興の象徴として愛されてきた」と語る。

取材で印象的だった風景がある。西区楠木町の本川右岸の大雁木(がんぎ)と満開の桜。江戸時代に荷揚げ場として造られた石段と、半世紀を刻む並木が調和していた。ここを守り活動拠点とする、「スタンドアップパドルボード(SUP=サップ)」の愛好者が、ドーム前まで往復して桜をめでる水上ツアーを楽しんでいた。

ひろしまSUPクラブ代表の西川隆治さん(56)は「この時季は広島の街が一番美しい。自粛生活が続く今だからこそ、川や自然に触れたいという人は増えている」と実感する。新たな試練からの再生を、水都の桜並木は見つめ続ける。

(写真と文・安部慶彦)

  • 楠木の大雁木と咲き誇る桜

  • 復興や平和への願いを込めて植えられた平和記念公園周辺の桜が、街の明かりに照らし出された

  • 長寿園アパート沿いの桜並木。盛りを過ぎ、吹き抜ける風で桜吹雪になった

  • 平和記念公園で散り始めたソメイヨシノを見上げる親子

  • 楠木の大雁木を大切にしているSUP愛好者。色とりどりのボードが桜の下に並んだ

  • 水上から桜を楽しむSUPのお花見ツアー(小型無人機から)

  • パドルをこぎながら花見を楽しんだ

  • 本川沿いで咲き競うソメイヨシノ。対岸は憩いの広場になった

  • 京橋川沿いの縮景園。ライトアップされた桜や竹林が川面に映る

  • 満開の桜に囲まれてSUPヨガでリラックスする愛好者

  • 戦後の復興とともに植えられ、大きく枝を張って河岸を彩るソメイヨシノ(小型無人機から)

  • 楠木の大雁木は、絵筆を執るのにも絶好のスポット

  • 水辺の護岸で遊ぶ子どもたち。奥は長寿園アパート沿いの桜並木

  • つり橋の工兵橋を包むように桜が連なる

  • 工兵橋下流の京橋川沿いで、水面に張り出した桜を楽しむ

  • 白島北町の本川沿いに立つ長寿園の碑。風に散る花びらを少女が手のひらで受け止めた

  • ピンクと白の花を咲かせる縮景園のシダレザクラ

  • 桜やモモ、レンギョウが咲き誇るJR可部線の旧安野駅一帯。奥は太田川(小型無人機から)

  • 太田川中流域の桜並木(小型無人機から)

第7回【ヤマセミはどこへ】
魚捕りの名手 受難の時代

ヤマセミの写真

日本鳥学会会員の上野吉雄さん(68)=廿日市市=は愛用の小さな双眼鏡を手にほぼ毎日、太田川流域を歩く。ただ、この2、3年、めっきり見掛けなくなった鳥がいるという。かつて中・上流域で常連だった魚捕りの名手、ヤマセミ。話の真相を探ろうと、年明けからその姿を追った。

白黒の鹿(か)の子柄で、ハトより少し大きい。頭上に逆立つ冠羽、大きなくちばし、「ケラケラケラ」と甲高い鳴き声。最初に出合ったのは1月中旬、渓流に張り出した枝で獲物をうかがい、存在感を放っていた。20分ほどして下を向くと、一気に川へ飛び込んだ。

かわいらしくて、りりしい姿。「1度見たら忘れない」。多くの人の心をつかむ訳が分かる気がした。

日本野鳥の会広島県支部が1991年、ヤマセミを調べた資料が残る。太田川水系では計12の生息地を記す。このデータを手掛かりに、住民や野鳥愛好家に話を聞き、会員制交流サイト(SNS)の情報も参考にしながら車を走らせた。結果として姿を確認できたのは4地点だけだった。

身近なヤマセミはなぜ減ったのか―。専門家は、相次ぐ土砂災害や護岸工事で巣穴に適した土の崖が減り、餌場の川も雑木林や竹やぶが刈られるなどしたためとみる。上野さんは「ひなの目撃情報が特に少ない。繁殖がうまくいっていないのかも」と心配する。

都市部でも同様だ。野鳥の会元支部長で広島女学院大名誉教授の中林光生さん(81)=広島市安佐北区=は、自宅近くの高瀬堰(ぜき)下流で2005年から14年間、ヤマセミを観察した。昨年、その記録を本にまとめた。「太田川の河川敷は自然豊かだが、災害対策などで環境が変わってきた」と話す。野鳥の観察マナーにも左右されるという。

30年ほど前は県内各地の川で見られたヤマセミ。県は、11年度のレッドデータブックで「準絶滅危惧種」とした。さらに21年度の改訂では「絶滅危惧Ⅱ類」へ格上げされる見通しだ。

実情を知ってもらおうと今月、NPO法人三段峡―太田川流域研究会が繁殖の本格化を前に初めての観察会を開き、親子連れらが参加した。「鳥たちもすみやすい川や森にしようね」。案内役を買って出た上野さんはそう語り掛けた。

(写真と文・安部慶彦)

  • 3月上旬、赤土の崖で確認した営巣活動。雄㊧は枝に止まり、巣穴を掘っていた雌が外へ出てきた。専門家の指導を受けて撮影した

  • 水面近くを滑るように飛ぶヤマセミ

  • 鹿の子柄と逆立つ頭上の冠羽がトレードマークだ

  • 巣穴の入り口で大きく羽ばたく。専門家の指導を受けて撮影した

  • 渓流の岩の上で寄り添うオシドリのつがい

  • 狩りの名手、ヤマセミ。捕らえた魚をくわえて飛び立つ

  • 繁殖期に入り、つがいでの滑空が見られた

  • 太田川支流で小魚を捕るカワセミ

  • 水辺のハンターが共演。同じ枝に止まったヤマセミ㊨とカワセミ

  • 太田川沿いの道路端で突然、ヤマドリが優美な姿を現した

  • 小魚や水生昆虫を捕らえる小型のカイツブリ

  • 観察会で、はく製(左からヤマセミ、アカショウビン、カワセミ)を見て特徴を学ぶ参加者

  • 川辺の枝に止まるエナガ

  • 水生昆虫などを捕らえて生活するカワガラス

  • マガモたちの食事風景

  • 華やかな春色にシジュウカラが囲まれていた

第6回【湿原の足跡】
八幡の潤い 動植物を育む
(広島県北広島町)

明けやらぬ稜線(りょうせん)が赤みを帯び始めた。雪の湿原はまだ青白い。足元の水辺に、丸い、小さなくぼみの列が浮かんだ。斜光の陰影が動物の足跡と気付かせてくれた。胴長のテンか。近くでウサギのそれも交差し、野生の躍動を想像した。

太古に湖底だった標高800メートル前後の盆地に、大小の湿原が点在する広島県北広島町八幡地区。立春の後の陽気をかき消すように2月中旬、大雪となった。天候が回復し、臥龍山北側の裾野に1キロほど続く霧ケ谷湿原を未明に訪れた。

年始に隣の湿原であった観察会を思い出す。「多くの動物は夜行性。直接見るのは難しいけれど、足跡などを手掛かりに生態が分かる」。認定NPO法人西中国山地自然史研究会事務局の前田芙紗さん(40)に教わった。家族連れに交じって「芸北 高原の自然館」周辺の雪をかき分けた。小高い丘では、ツキノワグマが登って実を食べた痕跡「クマ棚」がコナラの枝に残っていた。

自然館主任学芸員の白川勝信さん(48)は「湿原は誰でも訪れることができ、源流の中でも身近な場所」と紹介する。八幡は千メートル級の山々に囲まれ、年間降水量は2千ミリを超す。多様な動植物を育み、水質や流れを保つ湿原の役割を説く。

ただ八幡地区でも大正以降、水はけの悪い湿地の多くはかんがいによって田畑になった。戦時中は多くが演習場にされ、戦後は開拓団も入植した。その後も開発などで草地は広がり、森へと姿を変えていた。

霧ケ谷湿原も1960年代の牧場造成で乾燥が進み、閉鎖後の90年代に有志が再生へと立ち上がる。県は10年ほど前、柴木川の水を霧ケ谷全体に行き渡らせた。メンバーは昨秋も草刈りや水の流れを保つ活動に汗を流した。一方で北広島町は昨年、八幡の湿原群約415ヘクタールを野生生物の保護区に指定した。

自然館南の千町原(せんちょうばら)。植物学者牧野富太郎の句碑が立つ。昭和初期に八幡を訪れて湿原を彩るカキツバタ自生地の広さに驚き、世に知らしめた。白川さんは「長い年月をかけてできた湿原。守るのは人の力」と強調する。

再び霧ケ谷の朝。シジュウカラやエナガの声が響いた。春到来を告げていた。

(写真と文・安部慶彦)

  • 雪原の丘に立つコナラの枝に残っていた「クマ棚」に見入る観察会の参加者たち

  • 霧ケ谷湿原を上空から眺めると不思議な模様が広がっていた。左の直線は人が歩いた跡(小型無人機から)

  • 柴木川の水を全体に行き渡らせてよみがえりつつある霧ケ谷湿原(小型無人機で撮影した3枚を合成)

  • 動物の足跡が水辺を行き交う(小型無人機から)

  • 霧ケ谷湿原に隣接する二川キャンプ場。朝焼けの空と動物たちの足跡が幻想的に浮かんだ

  • キャンプ場付近に設置した自動カメラに写ったテンとみられる動物

  • ムササビの体の形のようなくぼみを見つけた。近くの樹上から飛び降りたのだろうか

  • 氷の張った池から延びていた痕跡。捕まえた魚を動物が引きずって運んだのかもしれない

  • 昨年11月、霧ケ谷湿原で保全のための草刈りや樹木伐採があり、ボランティアたちが汗を流した

  • 霧ケ谷湿原で草刈りをするボランティアたち

  • ふかふかした新雪の上に横たわる観察会の参加者(小型無人機から)

  • 臥龍山麓の千町原で、雪をまとう牧野富太郎博士の句碑。「衣にすりし 昔の里か燕子花」。湿原に自生していたカキツバタに感激してシャツまで染めたという逸話が残る

  • ヤマドリが飛び立ったとみられる雪上の跡

  • 月明かりに照らされた霧ヶ谷湿原。空にはオリオン座(中央右)などの星々がきらめいていた

  • 3月上旬の観察会。雪解け後の芝生上に数多く残る小さな盛り土はモグラの痕跡。ハタネズミが掘った細い通路もあり、生態の一端が分かる。奥は「芸北 高原の自然館」

第5回【那須の隠れ滝】
豊かな水 「消滅集落」に光
(広島県安芸太田町)

隠れ滝―。その響きに心引かれた。広島県安芸太田町で十方山(1319メートル)から北へ続く斜面を刻む幾筋もの谷の一つにある名瀑(ばく)。厳冬期の姿を見ようと1月下旬に向かった。

滝の名付け親は、谷川が下る山中の那須集落に母親と暮らす岡崎隆則さん(68)。3年前、半世紀ぶりに戻った古里の住民はわずか4人になっており、「消滅集落」との声も漏れた。「何とか元気づけたい」。澄んだ湧き水と、かつて遊んだ秘境を売りだそうと発起した。

太田川上流に注ぐ那須川沿いの急坂を車で上ると、木造の旧校舎が立つ小さな広場に着く。滝へは、家や田畑の脇を抜けて雪の林道の先にある登山口を出発した。

積雪は膝の下くらい。青空がのぞく。一帯は戦後に林業で栄え、名残の杉木立が白い斜面に影を映す。材木を運び出すのに使った道を伝い、硬い雪の斜面を横切り、尾根と谷を交互に越えていく。2時間で滝口上部のせせらぎに出合った。

合併前の戸河内町史の村境図に「三つ滝」と記された三段滝の最上部。下っていくと、水の流れ落ちる音が大きくなった。慎重に岩場を渡り、足場を探る。しぶきの舞う中段の滝つぼに立つと、岩肌に青みがかった氷柱が張り付いていた。傾く日が差し込んだ。

昨年末、岡崎さんと川をさかのぼるルートで下見した。自らがやぶを刈り、木橋を架けて歩けるようにしたという。滑り台のようなナメラや、石段の滝もあり「大小連なって落差100メートル以上。季節ごとに絶景を楽しめる」と胸を張る。この隠れ滝を昨秋のトレイルレースでコースに入れた松田孝志さん(55)=廿日市市=は「水の音を聞きながら約400人が駆け降りた」と振り返る。

豊かな水は那須の命だ。集落奥で湧き出る水が山中の浄化槽を経て、5世帯7人を潤す。「あふれるほどでありがたい」と、昨秋から住む地域おこし協力隊の米田新吾さん(57)。水を求めての移住者もいる。長老の岡田秋人さん(88)は「代々大切にしてきた水と滝のおかげで集落が息を吹き返しそう」と笑顔を見せた。

(写真と文・安部慶彦)

  • 那須集落を歩く米田さん(左)、岡田さん(中)、岡崎さん。「消滅集落」といわれた山里が変わりつつある

  • 三つ滝の中段。午後の太陽が滝口の上で輝いた

  • 訪れるルートを整備した「那須の隠れ滝」を案内する岡崎さん

  • 雪の斜面を横切るように進んでいく

  • 雪に覆われた岩場をゆっくりと下る。三つ滝中段の滝つぼへ向かう

  • 湧き水を集めた最上部の浄化設備。那須の住民が戦後に設置し、管理を続けてきた

  • 那須集落の石垣の段々に積もる雪。冬場は集落を離れる住民もいて、静けさに包まれていた

  • 林業で栄えた地域の歴史を感じさせる杉木立

  • 年明けの寒波で大雪に見舞われ、除雪作業に追われる岡田さん

  • 那須集落の入り口にある案内板。自由にくむことができる「那須の名水」(手前右)は冬でも凍らない

  • 軒下で寒風を浴びる漬物用の大根

  • 三つ滝の上段。周りの谷からも流れ込み、水量が増えていく(小型無人機から)

  • 滑り台のような緩い傾斜が約100㍍にわたって続くナメラ滝

  • 「那須の名水」のそばで話す岡田さん㊧、米田さん㊥、岡崎さん。奥左は木造の旧校舎

  • 山腹にぽっかりと開けた那須集落

第4回【JR可部線の旧田之尻駅】
流域支えた鉄路 余韻今も
(広島県安芸太田町)

広島県安芸太田町加計の町から太田川沿いを車で下流へ10分余り。津浪つなみ洞門のカーブを抜けると、右手の川向こうに小箱のような建物が見える。橋を渡ってみた。「たのしり」と書かれた地域の案内柱が立ち、こけむしたホームが建物の脇に延びていた。

川端の旧田之尻駅は水流の音や小鳥のさえずりが響く。JR可部線のうち、この駅を含め非電化だった可部(広島市安佐北区)―三段峡(安芸太田町)間46・2キロが廃止されたのは2003年12月1日。ディーゼルカーは姿を消し、今は鉄道ファンがたまに訪れるくらいという。

時を止めた駅舎の壁には時刻表や連絡用の電話機が残る。停車位置を示す標識、丸いミラーも歴史を感じさせ、単線のトンネル跡が鉄路の余韻を醸す。

「駅」の世話を60年近く続ける住民に出会った。すぐ隣に住む伊賀昭造さん(94)。竹ぼうきで周りを掃いたり草を刈ったり。「生活を支えてくれた可部線。その灯を完全に消したくない」と川面を見やった。

田之尻地区は旧筒賀村のほぼ東端に位置する。国鉄時代の昭和29(1954)年3月に加計駅まで延伸された2年後、「筒賀停車場」として出発。一つ下流側の旧坪野駅(同町)との間には、1954年にこの地で国鉄の敷設総延長が2万キロを突破した記念碑が立つ。

「田之尻駅」と改名したのは、三段峡まで開通した69年7月。しかし、陰陽を結ぶ一大計画は80年に凍結された。可部線は太田川流域の物流を担い住民や観光客を運び続けたが、車社会の到来や過疎化の波を受けた。民営化後の98年、JR西日本は赤字を理由に非電化区間の廃止を打ち出す。

沿線や都市の住民とともに田之尻でも存続運動を繰り広げた。駅前に蒸気機関車の模型を飾り、井仁の棚田の最寄り駅をアピールした。地区の祖母の家へ可部線で何度も通ったという広島市中区の会社員釈迦郡しゃかごおり一正さん(48)は「田之尻駅は可部線で一番小さな駅。役割を終えてもローカル線の雰囲気そのものです」。

(写真と文・安部慶彦)

  • 時刻表や木製のベンチがそのままの駅舎。目の前を流れる太田川に朝日が差した(魚眼レンズ使用)

  • ホームのミラーに映る伊賀さん。大粒の雪が舞っていた

  • 使われることのない連絡用の電話

  • 雪が降った日の翌日。ホームで昔を思い出す。可部線の現役当時は冬場の雪かきが日課だった

  • 無人駅だったことを物語る切符の回収箱。雪化粧した川の流れる音が響いた

  • 上空から見た旧田之尻駅(手前)と太田川の下流方面(小型無人機から)

  • 憩いの場でもあった駅には、時折、住民たちが立ち寄る

  • 廃止当時の時刻表が残る。鏡には川面が映っていた

  • 旧田之尻駅近くに残る鉄橋。可部線の廃止区間は鉄橋の多さも特徴だった

  • レールは撤去されており、砂利の線路跡が歴史を伝える

  • 旧田之尻駅と旧坪野駅との間に立つ、国鉄の敷設総延長2万㌔突破の記念石碑

  • 太田川中流域の谷間を縫うように走っていた可部線。あちこちに痕跡がある

第3回【恐羅漢山の樹氷】
雪深い奥山 自然の造形美
(広島県安芸太田町)

強い寒波がヤマを越えた年初の連休明け。太田川源流域にある広島県最高峰の恐羅漢山(安芸太田町、1346メートル)を目指した。

霧の中、新雪に沈むかんじきを一歩一歩進める。北側の尾根で視界が少し開けた。杉やヒノキの三角帽が厚い氷をまとい、ブナ林も凍り付いた枝が天を仰ぐ。山頂の標柱の目盛りは積雪2メートル近い。雲間から一瞬、陽光が差し込む。雪と氷の造形美に引き込まれた。

数日後、好天を念じて再登頂した。「これだけ大きな樹氷は久しぶり」。万全の冬山装備で訪れた、広島市安佐北区の荒木静江さん(71)はぐるりと見渡した。

冬に日本海からの烈風を浴びるこの奥山一帯は、夏場の多雨もあって降水量が県内で最も多い。島根県境に位置し、北東―南西の断層に沿って尾根と谷が走る。雪解け水は東側山麓の横川(よこごう)川から三段峡のある柴木川を経て太田川へ流れる。

静寂の山頂。眼下にスキー場が広がり、麓に5世帯6人が暮らす横川集落がある。古くは鉄山業や運搬で生計を立てた。戦後、木材需要の高まりで一帯は皆伐された。細るなりわいと離村に追い打ちを掛けたのが、1963(昭和38)年1月の「38豪雪」だ。気象台の記録では広島県芸北町(現北広島町)八幡で積雪350センチ。同月31日の中国新聞夕刊の「雪だより」は恐羅漢450センチと記す。

一方で、集落の危機を救ったのも雪の多さだった。地元有志が67年にスキー場を開設。73年には隣に国営(後に統合)もできた。林道整備や中国自動車道の開通で九州からの客も迎え入れた。こうした変遷は、広島修岳会名誉会長の瀬尾幸雄さん(90)=佐伯区=の著作「山の人生60年恐羅漢の山里を訪ねて」に詳しい。

近年は暖冬傾向で、新型コロナ禍の苦境も続く。父から継いだ民宿を10年ほど前にたたんだ隠居義明自治会長(73)は「自然の怖さを知ると同時に、その恩恵を受け続ける地域だ」と語る。

(写真と文・安部慶彦)

  • 山頂付近の木々は雪と氷を厚くまとっていた

  • 晴れ間が広がり、青空の下で樹氷が輝いた

  • 広島、島根(手前)県境の恐羅漢の山頂付近。奥右は内黒峠(小型無人機から)

  • 新雪を踏み締め、樹林帯を進む

  • 太陽の光を浴びた一滴が雪解け水となる

  • 新雪にけものの足跡が残る

  • 山頂を訪れた登山者。安全な計画と万全な装備は欠かせない

  • 太陽の光が、雪と氷の世界を少しずつ解かしていく

  • 頭をのぞかせた山頂の標柱が雪の深さを物語る

  • 新雪の斜面を山スキーで登っていく

  • 深入山(奥左)もすっかり雪化粧していた

  • 恐羅漢山頂付近で樹氷をカメラに収める登山者

  • リフト頂上。絶景を眺めながら滑り降りる

  • スキーヤーやスノーボーダーでにぎわう恐羅漢スノーパーク

  • 今冬は天然雪に恵まれ、リフト乗り場に列ができた

  • 民宿やペンションが立つ横川集落を歩く隠居義明自治会長

第2回【宇賀大橋】
長さ140メートル 床板の通学路
(広島市安佐北区)

「お帰り。さあ渡ろうね」。黄色い帽子の児童と愛犬連れの母親たちが、枕木のような木材を敷き詰めてある床板を踏みしめる。赤茶けた鉄製の手すりを冷たい風が吹き抜けていく。皆で歩を早めると、大きなつり橋が小刻みに揺れた。

山あいの広島市安佐北区安佐町久地。蛇行する太田川沿いに20世帯ほどが暮らす集落の名を冠した「宇賀大橋」が昨春から、約10年ぶりに通学路となった。地元の久地小が5キロ離れた飯室小に統合して児童はバス通学となり、朝夕、4人が対岸の国道まで行き来する。5年生の斉藤乙葉さん(11)は「冬の川は透き通っていてきれい」と笑顔を見せた。

宇賀地区は古くは林業で栄え、材木などを運ぶ拠点だった。川舟も行き交い、船宿が並んだという。市道である宇賀大橋は太田川に現在残る主な四つのつり橋のうち最も長い約140メートル。1953年に完成した。近くで育った福本五雄さん(78)は「昔は両岸をつなぐワイヤをたぐって舟で渡った」と懐かしむ。

戦後、太田川流域は人口が増え、地元の寄付もあって多くのつり橋が架けられた。車社会になると、鉄骨製に代わっていく。宇賀大橋は補修を重ねて元の姿を保ったが、JR可部線廃線で近くの小河内駅が閉鎖されるなどして役割は小さくなった。歩いて渡るのは主に子どもとお年寄りだ。

コンクリート製の主塔がそびえ、木床でも1トンまでの車は渡っていく独特の風景。大橋への愛着と地域の歴史を伝えようと、自治会と公民館が企画した町歩きは新型コロナウイルスによって取りやめた。橋の点検もする宇賀自治会の大田法隆会長(68)は「約70年、暮らしと川とともにあるつり橋。その役割を胸に刻んでほしい」と願う。

(写真と文・安部慶彦)

  • 宇賀大橋に積もった雪をシャベルで取り除く大田会長

  • 木製の床板だが、1㌧までの車両は通行できる

  • 帰り道に手をつないで歩く親子

  • 郵便局の赤い車も橋を渡って地域を巡る

  • 雪の舞う朝、子どもたちは足早に宇賀大橋を渡った

  • 右岸側の橋脚の周りは大きな岩場になっている

  • 宇賀大橋と山裾に並ぶ民家が川面に映り込んだ

  • 雪の朝、足跡の残るつり橋に朝日が差し込む

第1回【デルタの輝き】
水も電気も 暮らしの基盤
(広島市)

島々があかね色に包まれると、広島市街地は輝き始める。このデルタを生んだ太田川は6本に分かれて街中を縫い、瀬戸内海へ流れ込む。師走の夕刻、ヘリコプターから見渡すと、放射状に伸びる川筋が残照に浮かび上がった。暮らしと命を支える動脈に思えた。

恵みの最たるは水だ。田畑や集落を潤し、上水道は1899(明治32)年の給水開始以来、都市の生活と産業の基盤となった。現在は広島市をはじめ呉市や江田島市など島しょ部の計約155万人が享受する。

広島県西部の冠山(廿日市市吉和)一帯を源流とする1級河川。豊かな水量は中国地方で指折りの多雨に由来する。断層沿いから谷間を東へ曲流し、広島市北部で南へカーブ。延長は103キロに及ぶ。73もの支流を足すと流域面積は約1710平方キロと、県全体の2割を占めている。古くから農林業や船運、漁などの恩恵をもたらしてきた。

明治・大正期からは殖産や軍需を背景に電源開発が推し進められ、今も中国5県の水系で最多の15の水力発電所が稼働する。最大出力は計約83万キロワット。鳥取県の旭川と日野川水系の計約123万キロワットに次ぎ、5県全体の3割に当たる。戦後は大規模ダムも建設され、広島市や沿岸諸都市に電気を送る役割も持つ。

光輝く「水の都」は、400年前の毛利氏による築城から歴史を刻む。今は川沿いにカフェも並び、原爆ドーム前を遊覧船が行き交う。新型コロナウイルス禍で時は止まったようだが、川辺を散策する人の姿は増え、身近な川との距離が近づいて見える。河岸緑地で夏に初めて音楽の催しを企画した同市安佐南区の高田敬子さん(31)は「川の魅力で人がつながる。それが広島の良さです」と話す。

(写真と文・安部慶彦)

  • 広島湾上空から見た市街地のデルタ

  • 夕日に照らされて浮かび上がる広島市街地のデルタ

  • 源流域に広がる原生林

  • 廿日市市吉和の冠山山頂付近が太田川の源流となる

  • 冠山山頂一帯の太田川源流

  • 立岩ダム下部の太田川上流域

  • 中流でカーブを重ねる太田川

  • 中流で大小のカーブを重ねる太田川

  • 水力発電所や旧JR可部線高架が残る太田川中流域

  • 陽光に輝く太田川

プロローグ【再生のシンボル】
都市の浅瀬 命つなぐアユ
(広島市安佐南・安佐北区)

オレンジ色に体を染めた無数のアユが浅瀬を群れ泳ぐ。産卵を控えて警戒心は薄まるようで、レンズの前を平気で行き交う。11月上旬、広島市安佐南、安佐北両区にまたがる太田川下流域。両岸に住宅やマンションが並ぶ都市の川にアユ再生の兆しは確かにあった。

川と海をほぼ1年で行き来するアユ。太田川では9月下旬~11月上旬に下流で産卵して数日でふ化し、流れに任せて河口へ下る。海で育ち、翌春に川を上って力を蓄え、命をつなぐ。

「40年ほど前は産卵期にひと晩の漁で船が沈みそうになる日もあった」。近くの川漁師谷口正博さん(80)は懐かしむ。ここ数年、産卵のため川を下る落ちアユの魚影が濃くなり、さおを振る姿も増えたという。

アユ漁の浮沈は太田川の歩みと重なる。水系一帯には明治末期からの電源開発によるダムや堰(せき)が多く、戦後は広島湾の埋め立ても続いた。災害を防ぐ護岸のコンクリート化も進み、アユは減少の一途をたどった。

市は2014年、太田川漁協(安佐北区)や国、広島県とアユ再生に乗り出した。産卵場を整え、禁漁区域も広げた。同漁協の漁獲量は15年度、ピークの50分の1の6万7千匹にまで落ち込んだが、近年は回復。今季は下流に設けた産卵場周辺で推定約30万匹の親魚の大群を確認した。

「アユは太田川と広島湾の再生のシンボルだ」と同漁協の山中幸男組合長(74)。「ここ数年、春に堰の魚道をさかのぼる天然アユが増え、秋に産卵するサイクルができた。川と人が関わることで、アユ復活へ向かいつつある」と期待する。

(写真と文・安部慶彦)

  • アユを捕獲するミサゴ

  • 産卵場を整備する太田川漁協の組合員たち

  • アユをねらうカワウの大群

  • 太田川漁協の中間育成施設

  • アユの産卵場を調べる広島市の職員たち

  • 産卵場を整備する太田川漁協の組合員たち

  • 産卵場を整備する太田川漁協の組合員たち

  • カワウを追い払うため花火を打ち上げる太田川漁協の組合員

  • 太田川下流域の護岸周辺に集まったアユなど