被爆電車(中央)やグリーンムーバーマックス(奥の左右に横切る電車)など新旧の電車が行き交う本通電停かいわい(撮影・藤井康正)

 広島の街のランドマークの一つと言える広島電鉄の路面電車(市内線)が11月、開業110周年を迎える。原爆の惨禍やモータリゼーションの波を乗り越え、いまや路面電車としては日本一の乗客数を誇る大動脈となっている。2025年春には広島駅ビル(広島市南区)に乗り入れる新路線の開業も控え、さらなる進化を遂げようとしている。

【年表】広電・路面電車 110年のあゆみ 路面電車の可部線乗り入れ、宮島線の「急行」運転計画など過去の新聞記事も

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 ♪電車が渡る長い橋 流れのかなたに島影ゆれる…。「ズッコケ三人組」で知られ、昨年亡くなった広島市西区出身の児童文学作家・那須正幹さんが市をテーマに作詞した曲「ふるさとの詩」の出だしだ。歌詞の冒頭に路面電車を据えたのは、市民生活に根差す様子を表現するためだったのかもしれない。新型コロナウイルス禍で落ち込む前は毎年、年間3千万人以上が利用していた。

 「広島の中心市街地の骨組みは電車でできた」。日本路面電車同好会中国支部長の加藤一孝さん(72)=南区=はそう強調する。中区の八丁堀と紙屋町間の相生通りは、線路を敷くために広島城の外堀を埋め立てたことで形成された。

 広電の110年の歴史を振り返ると、2度の大きな危機があった。1度目は被爆。従業員185人を失い、車両の大半が被災した。

 2度目は、自動車が急増した1960、70年代の路面電車不要論だ。このとき窮地を救ったのが、後に社長を務めた当時の電車部長、奥窪央雄(ひさお)氏(16年死去)だ。「地下鉄がないうちは路面電車が頑張らねば広島の都市交通はまひしてしまう」。そう県警を説得して71年に軌道敷内への車の乗り入れ規制を実現させたことが路面電車の再生につながった。

 「全国の流れに迎合せず、さまざまな工夫をしながら進んだ人」。椋田昌夫社長は、奥窪氏をそう評する。市電を廃止した他市から格安で中古車を入手。塗料の節約も兼ね、京都や大阪で活躍した姿のまま走らせると、「動く電車の博物館」と脚光を浴びた。奥窪氏の精神は、国産初の超低床電車(05年)や電車内でワインを楽しめる「トランルージュ」(16年)など、幾多のユニークな取り組みにつながっていく。

 他都市のまねでなく、自分たちで考えて行動すればオンリーワンが生まれる―。日本一の路面電車を生んだ地域の経験は受け継がれ、これからも広島の街に個性を与えるに違いない。(馬場洋太、石井雄一)

 【注目ポイント】乗り入れ予定の広島駅ビル2階 吹き抜け・採光…「水の都」表現