絵・ワダシノブ
藤田雄一さん

 昨日は妻の月命日だったから夜更けまで飲んだ。起きると昼で、テレビをつけるとうるさい。消すはずがボタンを押し違えてチャンネルが変わり、しかし既にリモコンは放っていたため、そのまま顔を洗いに部屋を出た。

 線香をあげてから居間に戻ると、テレビではボケた老人の愚行を特集していた。【孤老の恥】なんてタイトルが画面の右上にあり、右下の四角の中ではコメンテーターが首を傾(かし)げている。モザイクで覆われたジジイがコンビニで裸になって叫んでいた。

「肋(あばら)がバラバラよ。肋がバラバラ」

「聞いたことない韻ですね」とコメンテーターは感心していたが、俺は、

「それじゃ座布団は貰えねーよ」と呟いて家を出た。俺は外出時にテレビはつけたままにする。

 年明け一月の空は神聖な気がする。新しい年は気持ちがいい。寒さに身を清められながら、近くのマックスバリュへ歩く。コンビニの看板が目に入った時、先程のテレビの中のジジイを思い出した。【孤老の恥】なんて馬鹿にされ、奴は何を考えて裸になったのか。どんな人生を送ってきたのだろうか。

 俺も孤老だ。4年前に妻が亡くなり独居老人になった。定年後、妻のお母さんの介護で広島に来た為、ここに知り合いはいない。お母さんの介護を終え、夫婦二人で旅行とかしながら老後を過ごそうとしていた矢先、妻まで逝ってしまった。何してんだ、と苛立ちも感じるが、妻が介護の責任を果たすことに一生懸命だった証だとも思う。妻は本当によくやった。立派だった。しかし今、俺は独りぼっちになってしまった。唯一の話し相手がいなくなり、基本的にテレビばかり見て過ごしている。何か集まりにでも参加すればいいのだろうが、興味の湧くものがない。妻は将棋の集まりに行きな、と言っていたが、ジジイがジジイと出会うというのが気恥ずかしい。俺は75歳にもなって、自分がジジイと認められないのかもしれない。俺はそこいらの老人みたいに病院をハシゴしない。

 寒さのせいか急な腹痛でコンビニに入る。飲み過ぎた翌日は腹が緩い。店内の照明を眩しく感じながらトイレの個室に入る。便座の温かさに表情が緩む。

 腹が落ち着くと今日の予定を立てた。買い物へ行き、今晩水曜のテレビ番組を思い返す。すると突然トイレのドアが開き、金髪の若い娘()が入ってきた。

 俺は驚きのあまり、何も言えなかった。

 相手と目が合った。相手の目がコマ送りで大きく開かれていくのが分かる。

「ご、ごめんなさい」

 若い娘は慌ててドアを閉めて出ていった。

「な、なんじゃ」

 俺はやっと言葉を発して、個室の中に残る香水の匂いを吸った。なんなんだ? 尻を洗ってズボンを履いた。脈拍が早い。

 トイレを出ると男性の店員がやってきて、「お客さん、トイレに入ったら、鍵をちゃんと閉めてくださいね」と言われた。

「あぁ、すまんすまん」と答えてコンビニを出た。見回したが、金髪の娘はいなかった。ゆっくり深呼吸しながら頬に触れた。遠くの水色の空の中を、飛行機が動いていた。

 楽々園駅の踏切を越えて進み、マックスバリュに着いた。入り口には向かわず、外に置いてある自動販売機横のベンチに座った。すると自転車がやってきた。幼児を後ろに乗せた母親が目の前のスペースで停車し、「フッ」と息を吐いてスタンドを立てた。幼児を抱え上げた時、ハンカチが地面に落ちた。瞬時に、俺が拾ってその母親に手渡し、その子にも感謝される想像をした。が、母親は自分でそのハンカチに気付いて拾い上げ、子どもの手を引いて店内に入っていった。

 携帯電話を開くと、午後2時になるところだった。目の前の駐車場には入れ代わり立ち代わり車がやってくる。車からは人が降り、店へ入る。または店から出て車へ入る。たくさんの人間が生活を営み、スーパーを利用していた。その様子を上空から見ると、パチンコ台みたいに見えるのではないか。車のドアが開く。人が動く。駐車場をジグザグに動いて店のドアへ。ブレーキランプが赤く光り、時折クラクションが鳴る。

 とすると、このベンチに座る俺はなんだ? 釘と釘の間に挟まって動けない玉だろうか?

 孤独だと思った。冷たい空気に鼻が痛む。

 目の前の景色に戻る。リュックを背負った若い娘が、自転車を停めて店へ入って行った。大学生だろうか。

 トイレで出会った若い娘を思い出す。

 あんな若くて綺麗な娘と話したのは何年ぶりだろうか。そもそも妻が亡くなってから、誰かと話すこと自体あっただろうか。最近は人と話をしていない。誰かと言葉を交わすのは、週に一度の整形外科に行った時だけだ。

 目の前を通り過ぎる人たち。その数メートル上を鳥が飛んできた。茶色の鳥が一羽。地上にある車やスーパー、建物も関係なく、飛び去って行く。俺は立ち上がった。ポケットの中に財布があることを確認しながら店内に入る。

 買い物を終えてマックスバリュを出ると、少し後悔した。レジで「買い物袋ご入用ですか」と尋ねられた時に、無言で手を振って断ったが、「いいや、いらんよ」とか何とか言えば良かった。せっかく他人と言葉を交わすチャンスだったのに、惜しいことをした。話す機会がないと、どんどん無口になる。話さないとボケるスピードが早いとテレビで言っていた。極力、話をするようにしよう。何か、将棋の集まりにでも行ってみるべきかもしれない。近いうちに集まりを探してみよう。どこに行けば良いだろうか。そういえば市の広報誌に、囲碁の集まりの案内は載っていた気がする。帰ったら見てみよう。

 エコバッグを肩に掛けて歩く。風が吹くとやはり寒い。上半身は厚手のジャンパーで大丈夫だが、足が寒い。温かい靴が欲しい。

「でも、温かい靴って、どこにあるんじゃ? 長靴か? 長靴とは言わんか、ブーツか。ブーツを探してみるか」

 言葉を発するべきだと考えて独りごちた。するとちょうどすれ違った子どもが背後で話した言葉が、耳に入った。

「何? 今の爺ちゃん、ブツブツ」

「やめろ、聞こえるぞ」

 ちゃんと聞こえてるぞ。それにしても文字通り、俺はブーツブーツ言っていた。これは面白い。小学生のくせに気の利いたことを言うじゃないか。それは座布団だ。

 独りで笑顔になりながら歩く。

 言葉を発してみると、面白いことがちゃんとあった。声を出して歩くことにした。

「やっぱり話をすべきだ。話すことで脳が活性化する。とりあえず、昨日のことを思い出してみよう。昨日は善(よし)子の月命日だったから、善子の好きな鮭を焼いた。お鉢をあげて、鮭を供えて、線香あげて、その前で俺も鮭を食って酒を飲んだ。善子の月命日には好きなだけ酒は飲んでいいことにしてる。それは俺が飲むことで、善子も酒を飲んでるって考えてるからだ。それにしても鮭があれば幸せだと言う善子は、本当にできた妻だった。鮭なベイビー。鮭なベイビーだね、鮭な…」

 つい大きな声になっていたらしく、道路向かいの歩道を行く女に睨まれた。スーツ姿で、セールスの女だろうか。周りを見回すと他に人はいなかった。車だけがひっきりなしに側を通り過ぎていく。今、もう車は人間の数よりも多いのだろう。道路のずっと先の方まで車が見えた。そして、コンビニも見えた。トイレで出会った綺麗な若い娘のことを思い出したが、コンビニには寄らずに家に帰ることにした。今日は水曜だから若手芸人のバラエティー番組を見て、「相棒」を見よう。触れたら冷たそうな青い空を眺めながら、少し重くなってきた荷物を持ち直した。

 今朝は寒くて目が覚めた。テレビをつけ、湯を沸かし、インスタントの味噌汁を飲む。健康のために妻と習慣にしていた納豆を食べる。テレビの占いが、9月生まれは買い物に吉だと言った。そこで今日、ブーツを買いに行くことにする。どこへ行けば買えるだろうか。ゆめタウンへ行ってみるか。しかしまだ6時だ。外は暗い。新聞を読んで、庭の掃除でもしよう。

 特にすることも無くなったので、8時に家を出た。冷え込んでいたので毛糸の帽子を被った。小学生や自転車の中高生が登校中で、街に活気があった。

「おはようございます」

 声がして振り返ると、向こうの横断歩道で小学生が大きな声で通りすがりの大人に挨拶をしていた。「おぉ」と感嘆した。こんなに寒いのに子どもは半ズボンで、元気があって大変よろしい。勝手に先生気分になっている自分に苦笑する。俺のところに小学生が来たら褒めてやろうと思ったが、こちらには来なかった。赤信号で止まり、進行方向を見渡す。こちらに歩いてくる小学生はいない。葉の落ちた街路樹が並んでいるだけだ。

 信号が変わり歩き出すと、昨日のコンビニの看板が目に入った。何か、良い出会いがあるかもしれないという淡い期待を抱いた。用を足したい気もした。少し速足でコンビニへ向かう。

「いらっしゃいませ」という店員の声に会釈してトイレへ進む。雑誌を立ち読みする客の背後をすり抜けて、昨日と同じトイレの個室に入った。横開きのドアを閉めると、目の前に鏡があり、自分の顔があった。すぐに目を逸らした。ドアに向き返って、鍵に手が伸びた。

 鍵をかけるべきだ、と思った。しかし、手を戻した。とりあえず、ズボンも下ろさずに便座に座った。躊躇した。顔が熱くて帽子を取る。

 昨日、この個室で遭遇した金髪の綺麗な娘を思い出した。目が合った。彼女が驚き、目を見開く様が鮮明によみがえる。

 外で足音がした。誰かやってくる。心拍数が上がる。興奮している自分に気付く。何も考えられなくなりながら、ただトイレのドアを凝視した。

 すると、ドアが開いて閉まる音がした。その足音の主は、もう片方のトイレに入ったようだった。咳払いと小便をする音が聞こえてきた。男だ。今は通勤時間だから、出勤前に立ち寄ったのかもしれない。男のクシャミを聞くと、気持ちが落ち着いてきた。俺も一度、咳払いをした。

 勢いよく立ち上がった。俺は鍵をかけようと決心した。これは恥ずかしい行為だ。騙しうちじゃないか。いい歳のジジイがやって良い行為ではない。

 しかしその時、また足音がした。さっきの男ではない。痙攣したように肩が動いた。慌てた。俺は自身の悪意に飲み込まれてしまったのか、身動きが取れなくなった。コンビニにはトイレは2つしか無い。1つは今、どこぞの男が使用中である。ということは、今入ってきた者は、鍵のかかっていないこのトイレにやってくることが確定している。

 今から、誰かがこのトイレに入ってくる。ここに来てしまう。

 鼓動が速くなる。これから誰かと遭遇することに極度に興奮した。手が震えていた。喉の奥がヒリヒリと乾いた。

 足音が止まった。

 カチッ。

 音がして、その足音は遠ざかって行った。

 外からドアの鍵をかけられた。

 ドアの取手の上、錠が回るのが見えた。

 俺は呆然と立ち尽くした。監禁されてしまった。俺は、閉じ込められてしまった。

 空気が薄くなった気がした。体に力が入らない。しかし、ここで座ってはダメだと思った。立ち上がれなくなる。

 ドアの取手につかまり、顔を近付けて鍵を確認した。【閉める】の方へ錠が回っていた。おそらく店員が外から鍵をかけたのだ。きっと昨日、俺が鍵をかけなかったことを注意した店員だ。俺が入店してトイレに向かったのを見ていて、確認に来た。すると案の定、昨日同様に俺が鍵をかけていなかった。あのジジイ、注意しても無駄だ、と考えて外から鍵をかけた。ということだろう。

 俺は耄碌したジジイで、トイレに鍵をかけられない奴。そういう判断が下されたのだ。

 鍵を開け、トイレから出た。徘徊する老人をイメージしながらコンビニを出た。そのまま進める方向へ歩いた。もう何も考えたくなかった。ただ歩くことにした。歩行者信号が点滅していたが道路を横断した。クラクションを鳴らされたが別にどうでも良かった。自分が横断歩道の黒い部分を歩いている方が気になった。最後の一歩も白線を避けた。このまま何処かへ落下すればいいと思った。

 住宅街の細い道で、肩が触れるほど塀に寄って歩く。車は減速せずに脇を通り過ぎる。俺はなぜ生きているんだろうか、と思った。

 前方からの自転車を避けるため、電柱の脇で止まる。触れた電柱は氷のように冷たかった。息継ぎするようにため息を吐いて顎を上げると、張り巡らされている電線が阿弥陀くじに見えた。目で黒い線を辿ってみる。小さな範囲をぐるぐると回り、進めない。馬鹿らしくなって止めた。

 このまま生きていて、楽しいことなんてあるのだろうか。独りで生活し、いつか病気になったら入院して死ぬ。子どもはいない。話せる友達も近くにいない。ただ時が過ぎるのを待ち、死ぬために生きている。

 この先の俺の人生は何なのだろう。意味が見つけられない。時間稼ぎの余生。空は曇っていて白く、その白さを見ていると、ここがあの世でも同じだと思った。足が止まった。

「あの、すみません」

 突然肩を叩かれた。

「これ、あなたのじゃないですか?

 それは俺の帽子だった。しかしそれよりも、その青年が気になった。

「君、何人(じん)?

「ベトナム人です」

「日本語喋れるんだ」

「はい。日本語勉強していますから」

 彼はコンビニの店員で、俺がトイレに忘れていた帽子を持って来てくれたらしい。私服姿なのは、バイト終わりに忘れ物を届けるのを頼まれたからだと言った。

「ありがとう」

 その帽子は妻が作ってくれたものだ。いつかの誕生日プレゼント。もう何十年も使っている。そんな大切な、今では形見となってしまった帽子を忘れてしまうとは。

 帽子を受け取り、被った。温かい。何だか泣けてきた。鼻を啜ると、

「おじいさん、風邪ですか?」と聞かれた。

「この帽子はな、死んだ妻の形見なんだよ」

 俺は言いながら何だか寂しくなり、目尻を指で拭った。そのベトナム人はハンカチを差し出してくれた。彼の手は、よく日に焼けた色をしていた。礼を言ってハンカチを受け取り、涙を拭いた。そして彼に返した。

「すみません、カタミってどういう意味ですか?

 彼はハンカチをポケットにしまってから、両手を合わせ、申し訳なさそうに尋ねてきた。

「え? 形見が分からないのか?

「はい。まだ学校で習っていません」

 俺は形見についていろいろと説明したが伝わらず、とりあえず、「とても大事なもの」ということで落ち着いた。俺は彼がどこの日本語学校に通っているのか聞いた。

「寮はこの近くにあります。ゆめタウンの近くです」

「そうなのか。俺もちょうどゆめタウンに行く途中だ。今から君は、どうするんだ?

「寮に帰ります。その後、学校に行きます」

「同じ方向じゃないか。一緒に行こう」

「はい。分かりました」

 現在地を把握するために辺りを見回す。バスがウインカーを点滅させながら通り過ぎた。俺たち二人は、ゆめタウンの方向を指差して確認し合った。

 歩きながら、彼がどんな生活を送っているのかを尋ねた。寮は8人部屋。二段ベッドで寝ているらしい。ベトナムで両親が借金をして彼を留学させてくれた。日本語を覚え、日本で就職して、親に恩返ししますと彼は言った。外国での生活は大変に違いない。彼は覚悟のある、精悍な顔をしていた。

 電柱に【天皇杯全国都道府県対抗男子駅伝】のポスターを見つけた。

「再来週、駅伝があるな」

「走る、競争ですね。知っています。まだ見たことないです」

「そうか、俺はいつも街頭で応援してる。応援はいい。人の応援をすると、自分が元気をもらえる。君も折角なら、見た方がいい」

「分かりました」

 彼は笑顔で返事をしたが、彼一人で駅伝の応援ができるだろうか心配になった。今度コンビニに寄り、必要なら連れて行ってやろうと思った。

 食事はちゃんととっているのか聞いていると、彼の寮に着いた。久しぶりに会話というものをした礼を伝えると、彼も「ありがとうございました」と言ってくれた。

「日本人の知り合い少ないですから、私もいい勉強になりました」

 いつでも話し相手になることを伝えると、彼は一度顎に触れ、考えてから言った。

「あの、すみません、では最後に一つだけ、質問してもいいですか?

「あぁ、いいよ」

「【ミゾオチ】って何ですか? 体のどこかですか?

 質問の意図を聞くと、先程コンビニで客が言っていたのだが、意味が分からなかったからだと言う。その客が、どんな脈略で【ミゾオチ】という言葉を使ったのか気になったが、

「ここだよ、ここ」と自分の体のみぞおちを指差した。

「ここ、溝になってるだろ? 凹んでる。窪んでる。え? 分からない? 穴、ではねぇか。窪みがあるじゃねぇか」

「その言葉、クボミ、よく分かりません」

 何度もジャンパーの上からみぞおちを指差すが、伝わらない。

「ええぃ、しょうがねぇなあ」

 俺はジャンパーを脱ぎ、セーターとシャツ、下着を一緒につかんで脱ぎ、上半身裸になった。

「ここだよ、この凹んでるところ、この部分が、【ミゾオチ】」

「あぁ、おじいさん、寒いです。寒いです」

「おい、【ミゾオチ】、分かったか?

「はい。分かりました。服着てください」

 通りすがりのおばさんの訝しげな顔を見て、俺は慌てて服を着た。そしてジャンパーを手渡す彼に、

「おまえさんが腑に落ちたならよかった」と言い終わって、意味が通じないだろうなと気付いたが、彼がうまいこと、

「おじいさん、帽子も落ちています」と屈んで帽子を拾ってくれたので、笑った。

生きる愛おしさ感じて

 独り旅をしていると、自分が存在しているのか分からなくなります。出会う人とあいさつを交わすことで自分を確認します。受賞の知らせはそれと同じようにありがたく、安心するものでした。作品から、生きていることは愛(いと)おしいと感じていただけたら光栄です。いろいろなことがありますが、生活を送るためのエネルギーになれば嬉(うれ)しいです。これからも精進し、読んだ方が悪くない時間だったと思える小説を作ります。

 ふじた・ゆういち 1981年萩市生まれ。県立山口南総合支援学校教諭。東京学芸大教育学部を卒業後、2007年から山口県内の早鞆高、西京高、下関中等教育学校などに勤務した。18年から1年半、中国山東省の学校に赴任した。「文芸山口」同人。山口市在住。