沖縄はきのう「慰霊の日」を迎え、県主催の沖縄全戦没者追悼式が営まれた。

 1945年、沖縄に上陸した米軍と地上戦の末、組織的な戦闘が終結したとされる6月23日から77年。日米の両軍、民間人を合わせて20万人を超す犠牲者が出た沖縄戦の悲劇を、決して忘れてはならない。

 最後の激戦地、糸満市摩文仁の丘にある「平和の礎(いしじ)」に刻まれた肉親の名を指でなぞる遺族の姿が、ことしも報じられた。沖縄県民の4人に1人が命を落とした地上戦の記憶と、ロシアの侵攻で苦境に立つウクライナを重ねる人も多いはずだ。「命(ぬち)どぅ宝」という沖縄発のメッセージは今だからこそ重みを増す。

 本土にいる私たちも沖縄戦の惨禍の記憶を共有したい。本土復帰50年を経ても沖縄に集中する米軍基地のこと、東アジア情勢によって再び沖縄が戦争に巻き込まれる懸念があること。それらを考える原点は何より沖縄戦の教訓であり、戦争の不条理と残酷さを知ることである。

 沖縄戦の本質とは何なのか。住民から見れば平穏な暮らしが軍の都合によって生き地獄へと変わったことだろう。

 もともと沖縄に大きな軍事施設はなかった。だが44年に沖縄守備軍「第32軍」が置かれる。那覇の大半を焼き尽くした米軍空襲を経て、沖縄の象徴である首里城の地下に巨大な司令部壕(ごう)が構築された。米軍の上陸後も第32軍は降伏せずに摩文仁のある沖縄本島南部に撤退し、多くの住民を戦火に巻き込む。

 本土決戦に備えた時間稼ぎの持久戦で、県民を「捨て石」にしたといえよう。軍は中学生や女学生も学徒隊として戦場に動員し、「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の猛攻にさらした。

 沖縄では戦没者の遺骨収集が民間の手で今も続く。不発弾の発見も絶えない。ただ戦争体験が本土より身近な環境であっても若い世代の体験風化が指摘される。証言者の高齢化で活動が思うに任せない面もあろう。

 その中で無言の証人となる戦争遺跡が焦点となっている。例えば地下に眠る第32軍司令部壕である。復元されていた首里城が3年前に火災で焼失し、再建を議論する中で存在がクローズアップされた。県は検討委員会を重ね、保存と公開を探る。

 こうした取り組みは国としても支援すべきではないか。広島、長崎の被爆体験と同様に沖縄戦を日本全体で語り継ぎ、近未来への警鐘とするために。

 きのう玉城デニー知事の平和宣言と岸田文雄首相の追悼式あいさつは、図らずも同じ言葉を引用した。「万国津梁(ばんこくしんりょう)」。アジアの架け橋として、平和と友好を育む沖縄の精神を指す。

 その由来となった国の重要文化財「万国津梁の鐘」が、東京国立博物館での本土復帰50年の特別展で公開されている。琉球王国が中継貿易の拠点として繁栄した15世紀半ばの文化遺産。首里城で米軍の砲撃を受けた跡が少しだけ残る。戦火で失われた文化財は多く、復元の営みは77年たっても終わりはない。

 何にも代えがたい人々の命と暮らし、長い歴史と文化、さらには豊かな自然を破壊した戦争の罪深さを、あらためて思う。苦難を経た沖縄から世界に発信すべきなのは、やはり不戦と平和の誓いである。基地による抑止力ではないはずだ。