岸田貢宜さんが被爆翌日の1945年8月7日に自宅跡付近から西方の爆心地方向に向けて撮ったカット。火災の余燼がくすぶっている。中央奥が広島県産業奨励館(現原爆ドーム)、左端は帝国銀行広島支店(現広島アンデルセン)、右端は芸備銀行(現広島銀行)本店(岸田哲平さん提供)
岸田さんの孫の哲平さんが同じ構図で撮った本通り(2019年8月撮影)
岸田貢宜さん
被爆翌日の岸田さんと同じ場所で写真を撮った思いを話す孫の哲平さん
被爆の2年前、1943年の本通り商店街。奥左の縦型の白抜き文字に見える看板が奥本金物店。中央は玩具や子どもの服のマルタカ子供百貨店。岸田さんの写真の右側部分のがれきの一角に位置していた(益田崇教さん提供)
本通り商店街の被爆前後を証言する奥本博さん(2019年11月撮影)
(写真 全7枚)

 米軍による広島、長崎への原爆投下から今年で77年。核兵器の非人道性を証言してきた被爆者が高齢化し減少する中、その惨禍を記録した写真の役割は増している。撮影者の「あの日」の体験や、写された街や人の被害をたどり、その意味を見つめ直す。

 広島市南区のJR広島駅から路面電車で約10分。市中心部の本通り商店街(中区)は中四国最大規模の商店街だ。東西577メートルのアーケードに若者向けの衣料品店や飲食店など約200店舗が並び、人通りが絶えない。

 本通りは、戦前から広島有数の繁華街だった。太平洋戦争の戦況が厳しくなり、物資の統制が進むにつれて閉じる店もあったが、終戦間際も約160店が営業を続けていたという。

 194586日。その商店街は米軍が投下した1発の原爆の猛烈な爆風、熱線で壊滅した。並んでいた店は銀行など一部の鉄筋建物を残して倒壊し、猛火で焼き尽くされた。火災の余燼(よじん)がくすぶる翌7日の惨状を撮った写真が今も残っている。

 撮影者は、当時29歳だった岸田貢宜(みつぎ)さん(87年に71歳で死去)。商店街の一角に自宅兼写真館があり、その跡辺りに立ってカメラを手にした。爆心地から約500メートル南東。周囲に広がる焼け跡は、まだ熱っぽかったという。

 「この世の地獄。うめき、苦しみ、助けを求める人達…」。岸田さんは戦後の書簡で当時の惨状をこう記している。実は6日にもカメラを提げて本通りに入っていた。だが、無残な姿の死傷者を前にどうしてもシャッターを切れなかったという。一夜明け、葛藤の末に変わり果てた「地元」本通りの写真を撮った。

 「後世に残さねば」 被爆翌日に惨状撮影

 岸田さんが本通りに写真館を創業したのは3年前の42年。戦争が激化する中、広島城に置かれていた旧陸軍の中国軍管区司令部報道班の班員を務めていた。

 4586日朝は、広島県北部の吉田町(現安芸高田市)に軍の任務で出張中。立ち上る雲を目撃し広島へ向かったが、列車は広島方面が大火災のため戸坂駅(現広島市東区)で停車した。岸田さんは、市郊外へ逃れる負傷者をかき分けるように歩き続け、中心部へ入った。

 カメラを提げていたが、「写真を写すどころか一パイの水をのますのが精一パイ」(書簡)。商店街の一角の防火水槽の周りに死傷者がおり、漬かっていた1人の女性を助け上げた。痛々しい姿の死傷者を撮るのは、つらい。軍の報道班員として悲惨な場面を撮って戦意を低下させてはならない―。被爆当日の6日に撮影をしなかった心中を後にそう証言している。

 しかし翌日、「未曾有の被害状況を後世に残さねばならない」と意を決した。本通りに加え、近くで焼け残った鉄筋8階建ての福屋百貨店の非常階段から焼け跡を見渡すカットなどを撮影した。ただ、死傷者の顔が見えるようなアップは最後まで撮らなかった。

 6日から市中心部に入った岸田さんは13日ごろから放射線の影響とみられる高熱に襲われ、数カ月にわたり療養した。その後、本通り商店街で写真館を再建。婚礼写真などの仕事の傍ら元中国新聞カメラマンの故松重美人さんたちと「広島原爆被災撮影者の会」をつくり、写真集「広島壊滅のとき」を81年に発刊した。

 「逆戻り」避けて 孫が同じ構図で撮影 

 岸田さんは87年、71歳で亡くなった。その2年前の85年に開かれた原爆写真の撮影者による座談会ではこう訴えている。「原爆を使えば人類は破滅ということをつくづく感じました」

 岸田さんの撮った本通りは被爆後の市中心街を最も早く収めた写真とされている。そのカットを含めて岸田さんが被爆直後に撮った写真30枚のネガフィルムは長年、銀行の貸金庫で保管されてきた。孫の哲平さん(45=東京都杉並区=4年前、祖父の店を継いだ父とともに「記憶の継承に役立ててほしい」と原爆資料館(中区)に託した。

 哲平さんは東京で20年以上ライブカメラマンとして活動し、桑田佳祐さんや宇多田ヒカルさんたちの公演を撮ってきた。小学4年の時に亡くなった祖父から、撮影時の話を直接聞いたことはない。「優しい思い出ばかりのおじいちゃんが、あの状況でどんな気持ちで撮ったのか。できることなら聞きたい」。年々そんな思いが募っている。

 きっかけの一つは、2011年の東日本大震災だ。「おじいちゃんの写真と今を見比べれば、困難からでも復興できる人間の力を感じてもらえるのでは」。そう思い立って13年に祖父と同じ福屋からの構図で都心のパノラマを撮った。198月にも、写真館があった本通りで同じ構図で撮影。広島県の会員制交流サイト(SNS)「日刊わしら」で発信した。

 祖父と孫が同じ場所で撮った全く異なる街の光景。見比べ、復興だけではなく避けなければならない未来を想像してほしいと願う。「もし戦争が起き、原爆が使われれば、僕が撮ったような日常から、おじいちゃんが撮った惨状に逆戻りする」と。

 跡形ない自宅 家族6人失った男性

 岸田さんの87日の写真は、奥中央に現在原爆ドームとして知られる広島県産業奨励館が見え、左端には本通り商店街の一角にあった帝国銀行広島支店が写っている。鉄筋2階建てだった同支店の建物は壁の一部が崩れ、屋根は抜け落ちた。現地は今、同支店の被爆壁を一部使って建て替えられたパン製造などの広島アンデルセンの店舗がある。

 被爆前、同支店の近くには奥本博さん(92=中区=の父が営む「奥本金物店」と家族の住まいがあった。奥本さんは手元に置いている岸田さんの写真の複写を広げると、がれきと化している写真の中央少し右辺りを指さした。「うちはこの辺り。87日、自宅の跡に入ろうとすると、壁土や灰の下は残り火の海でした」

 金物店は奥本さんの祖父が明治時代に創業。奥本さんは祖母と両親、弟2人、妹2人との8人で暮らしていた。3軒隣の玩具店「マルタカ子供百貨店」は木馬や滑り台で遊べる遊園地のような場所。近所の「金正堂書店」は2階が食堂で家族と一緒に―。被爆前の本通りの思い出が尽きない。

 それが「あの日」、家族とも街とも引き裂かれた。

 旧制修道中3年だった奥本さんは朝、自宅を出て学徒動員の作業現場だった旧陸軍の材木集積場にいた。爆心地から約4・1キロ。爆風を受けたものの、けがはなかった。市中心部は見渡す限り大火災。本通りに近づくことはできなかった。

 翌日、やっと自宅前にたどり着いたが、我が家は跡形もなかった。だが、無事を信じた。「家族はどこかへ逃げているに違いない。そればかり思っていた」。「博 健在」と紙に書き、そばに倒れていた電柱の上に置いた。それから家族を捜して何日も歩き回った。

 しかし、父八重蔵さん=当時(43=ら家族6人を失い、生き残ったのは、奥本さんと祖母だけだった。

 末の妹の妙子さん=同(4つ)=は、店の焼け跡で小さな骨になっていた。妹文子さん=同(13)、弟の克彦さん=同(8つ)=と直通さん=同(6つ)=は、遺骨すら見つかっていない。

 避難先で再会できた母の寿子さん=同(38=は下痢に苦しんだ。今は放射線の急性症状の一つと知られている。足をさすると、「もうええよ」と言い残して被爆の8日後に息を引き取った。「周りも大勢の人々が大変な目に遭われ、悲しむ暇もなく、涙を流す余裕もなかった」。大混乱の中、生き抜くことで精いっぱいだった当時を思い起こすと、亡くなった家族に申し訳なさを感じるという。

 復興した本通り 平和かみしめて

 戦後は、高松市の親戚宅へ身を寄せた。だが、古里への思いは消えなかった。5年後に本通り商店街の自宅跡へ戻り、紳士洋品店を約40年間続けた。2001年に店を畳んだ後も本通りで暮らしている。郵便受けには戦前からの奥本金物店の屋号を刻み、毎朝、原爆で亡くなった家族を思って仏壇に向かっている。

 岸田さんの写真に刻まれた77年前の惨状から復興した今の本通りでの暮らし。孫やひ孫もいる奥本さんは「穏やかな平和をかみしめています」と優しい口調で話した。

 米軍が広島に投下した原爆は、本通り商店街近くの「島病院」の上空でさく裂した。猛烈な爆風、熱線で爆心地(島病院)から半径約2キロの街並みは鉄筋建物を一部残して全壊、全焼した。本通り商店街は、爆心地から数十メートル~約700メートルのエリアにあった。

 熱線による大やけど、建物の下敷きになるなどの外傷、放射線による造血機能の破壊などでおびただしい命が奪われた。日米合同調査によれば、爆心地から500メートル以内にいた人の死亡率は96・5%。実際にはさらに高いという見方もある。広島市は、放射線の急性障害が一応収束したとされる45年12月末までの犠牲者数として14万人(誤差±1万人)の推計値を示している。

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 この記事は、中国新聞とYahoo!ニュースの共同連携企画です。ロシアによるウクライナ侵攻で核兵器使用への懸念が強まっています。繰り返されてはならない惨禍を世代を超えて伝える写真の意味を被爆地広島から考えます。

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