原爆資料館では尾糠さんが似島で撮影した写真(右端)が常設展示されている
島根県川本町の自宅の写真館スタジオで、自ら企画した写真展の準備をする尾糠さん夫妻(2005年)
尾糠政美さん
似島の検疫所跡などを訪れた尾糠清司さん㊧
聖学院中高の図書館に設けた尾糠さんの資料展示コーナーを紹介する大川さん
(写真 全6枚)

 米軍による広島、長崎への原爆投下から今年で77年。核兵器の非人道性を証言してきた被爆者が高齢化し減少する中、その惨禍を記録した写真の役割は増している。撮影者の「あの日」の体験や、写された街や人の被害をたどり、その意味を見つめ直す。

 「こんなのを写真に写さにゃいけんのかな、思いまして。命令とはいえあんまり残酷じゃないかと」。尾糠政美さん(2011年に89歳で死去)は自らも被爆した翌日、被爆者のむごたらしい姿を記録に残した。決して自ら望んだわけではない。軍の命令による苦渋の撮影だった。

 苦しむ被爆者の撮影 冷静でいられず

 23歳だった尾糠さんは、陸軍船舶司令部の写真班員だった。194586日、広島湾に面した宇品町(現広島市南区)の司令部で朝礼中に被爆した。帰宅命令を受けていったんは司令部を離れたが、市内に住む母マキノさん=当時(60)=は見つけられず、より市中心部に近い姉宅には猛火で近づけない。市街地を挟んで反対側にある自分の下宿に帰ることもできず、結局は司令部に戻った。翌7日、司令部でけが人の収容作業をした後、午後から沖合の似島に渡り、写真を撮影することになる。

 島内には陸軍の似島検疫所があった。戦地から帰還した兵士に対して伝染病の検疫や消毒をするための施設だが、米軍が広島に原爆を投下した6日以降、続々とけが人が運び込まれていた。背中が焼けただれた女性や、全身を焼かれた男性…。軍医の命令の下で次々とフィルムに収めた。顔をひどくやけどした負傷者は、うっすらと開いた目をレンズに向けているようにも見えた。

 「写すときに視線が合うんですよ、ファインダーのぞいて」「撮られる者の身になれば、こんな無残な光景をさらされちゃ(と)思いますよね」。尾糠さんは92年収録の証言で、命じられた撮影の苦しみを吐露している。「命令に従って撮っただけでね。『将来に記録に残さにゃいけんから』で写真機で撮ることはできませんわね。若い娘さんもシミーズ1枚でしょう。シミーズのない人もいる。これをカメラでこう写せますか」。使命感で撮ったわけではない―。あえて、そう強調していた。

 8日も軍務で市内の収容所を撮影して回った。病院や百貨店、軍施設、学校―。焼け残った施設が救護所に転用されていた。「『苦しい、苦しい』と訴える少年の姿、無残な姿の女学生、動員学徒など、ファインダーを通して見るとき、いつもの冷静さではいられなかった」(『広島原爆戦災誌』71年刊)

 終戦時にネガ焼却 ひそかにプリント残す

 ネガフィルムは終戦時に軍の命令で焼却されたが、写真班の同僚や軍医がひそかにプリントの一部を残した。尾糠さんが撮影した写真は占領明けの52年、「原爆被害の初公開」と銘打ち話題を呼んだ写真誌「アサヒグラフ」に撮影者名なしで掲載された。原爆資料館(中区)は現在、尾糠さん撮影のプリント6枚を保存している。

 母はついに見つからなかった。戦後は郷里に近い島根県川本町で写真館を営み、晩年には小学校で体験を語るなど、強いられた撮影の苦しい記憶に向き合った。2005年、中国新聞の取材に対し「写真を見てもらえれば分かる。見てほしいのです」と語り、同年に写真展も開いた。

 父が背負った重荷 足跡たどった息子

 尾糠さんは05年の記事を、都内で学習塾を営む三男清司さん(60)=川崎市=に送っていた。「記事が送られてきたのが一つのきっかけ。あれ以来、息子なりの使命を考えるようになりました」

 写真好きで、パワフルな昭和の頑固おやじ。南方の戦地や広島にいたことは子どもの頃から知っていたが、多弁な人柄でもなく、それほど意識せずにきた。覚えているのはむしろ、年中無休で地域の冠婚葬祭を撮り続けた父の姿だ。「写真の腕は良かったようです。『うちで現像した写真は色あせんと言われたよ』とうれしそうに語っていました」。似島での撮影は、その父が思いがけず背負わされた重荷だった。

 教育に携わる身だからこそ、できることはないか。月1回発行する塾報では毎夏、父の仕事を紹介し、原爆や戦争、平和について生徒や保護者に発信するようになった。

 「おやじがあの仕事をした現場を知りたい」。そんな思いも生まれた。清司さんは21年12月に似島を訪れ、地元ガイドの案内で父の足跡をたどった。約1万人の被爆者が運び込まれ、現在は「似島臨海少年自然の家」となった検疫所の跡地のほか、被爆者を搬入した桟橋、犠牲者の火葬にも使われた焼却炉の遺構などにも足を運んだ。

 父の歩いたであろう場所、父が「あの写真」を撮影したであろう場所―。「おやじはどんな地獄絵図を見たんでしょうね」。すっかり姿を変えた似島の穏やかな風景に視線を向ける。「断片的な知識がつながって、少しはおやじに近づけた気がします」と静かに語った。

 残された資料 寄贈し平和学習に

 尾糠さんは11年に亡くなり、郷里の写真館は19年に解体された。残されたプリントや関連書籍などの資料は清司さんが受け継いだ後、現在は思いがけない場所に託されている。

 記者が東京都北区の私立聖学院中高を訪ねると、図書館部長で国語科教諭の大川功さん(55)が迎えてくれた。「学校としても、広島原爆の学習にはまだ取り組めていなかったところにお話をいただきました」。図書館には、尾糠さんの写真や関連記事の展示スペースが設けられていた。清司さんが平和教育に熱心な学校として仕事仲間に紹介され、「子どもたちに伝えられるなら」と資料を寄贈していた。

 同校は30年以上にわたり、沖縄での平和学習に取り組んできた。とはいえ、尾糠さんの写真をどう生かすかは手探りだった。「凄惨な写真でもあり、悩みながらの展示でした」と大川さん。展示パネルを見ると、色とりどりの付箋が貼られている。「最悪だ…どうやったら核をなくせるだろうか?」「写真を撮った尾糠さんの心にも、暗い影が宿り続けたと思う」。文化祭での展示で、大川さんが対話を重ねた生徒や保護者が書いた感想をそのまま残しているのだという。

 今後は、他校とも連携して尾糠さんの資料を通じた学習を進めたいと考えている。「貴重な記録としてただ保管しておくだけでは意味がない。『悲惨だ』『大変だ』と言うばかりでも生徒の心には届かない。学習や対話のきっかけとしてどう生かせるか」。生徒たちは6月から既に、都内の別の3校の生徒とオンラインでの交流を始めている。「平和を語り合う場をつくりたいと言ってくれています。教師として後押ししてあげたい」

 核の恐ろしさ伝える「雄弁な記録」

 尾糠さんは92年の証言で子どもたちの犠牲についてこうも語っていた。「本当に無残で。今頃の子どもさんは健やかに大きくなれる。とめどなく涙が出る。どこまで話したら分かっていただけるか。ただ、私は話が下手」

 尾糠さんが苦しみながら残した写真は、言葉では言い尽くせない無残な結果をもたらす核兵器の恐ろしさを伝え続ける。その「雄弁な記録」を、若い世代が受け継ごうとしている。

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 この記事は、中国新聞とYahoo!ニュースの共同連携企画です。ロシアによるウクライナ侵攻で核兵器使用への懸念が強まっています。繰り返されてはならない惨禍を世代を超えて伝える写真の意味を被爆地広島から考えます。

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