「こんな記録があったなんて…」。自らの被爆記録を驚きながら見る松原さん(左)と伝承者の伊藤さん(撮影・浜岡学)
松原さんの名前や被爆場所が記された調査票。「都築資料」は1981年、遺族から広島市に寄贈された

 ヒロシマの証言者の先駆けの一人、松原美代子さん(81)=広島市南区=が、1945年10月29日に受診していた自らの被爆記録と69年ぶりに対面した。東京帝大医学部の都築正男教授が残した約2千枚の被爆者調査票にあった。所蔵する広島市公文書館で4日、特別閲覧を申請。「生き抜いたからこそ確認できた」と記録に見入り、市の「被爆体験伝承者」らに活用を願った。

 1人暮らしで退院間もない松原さんは、一昨年からスタートした「伝承者」に応じて彼女の半生を聞き取っている伊藤正雄さん(73)=同市佐伯区=に付き添われ、同館を訪ねた。

 「両足も焼かれ、歩けなかったころ。お父さんたちに担架で運ばれて行ったと思う」と、記述内容を追った。受診所は「大河」。当時の住まいに近く、直後から救護施設が設けられた大河国民学校(現南区の大河小)で受けていた。

 45年8月6日、広島女子商1年だった松原さんは、動員された鶴見橋西詰め一帯(現中区)の建物疎開作業中に被爆した。爆心地の約1・5キロ。作業に出た同校1、2年生の329人が死去したとされている。

 「原子爆弾災害調査事項」と印刷された紙には、表裏で調査項目は17に及び、ドイツ語や英語でも記載がある。松原さんの熱傷は中程度の「II」。それでも全身の30%をやけどしたことが読み取れる。

 急性放射線障害の「脱毛」「倦怠(けんたい)等」に陥った一方、治療は「油 軟こう」を塗るにとどまっていたことも記載されていた。

 ケロイドが消えなかった松原さんは52年、現在の大阪市立大で植皮手術を受けた。「原爆乙女」と呼ばれた女性たちが傷を隠さず、声を上げたことから被爆者援護の機運が高まる。57年の原爆医療法施行につながった。

 松原さんは、市の特別名誉市民となるバーバラ・レイノルズさんが実現させた62年と64年の「平和巡礼」を担い、欧米とソ連で被爆の実態と核兵器の禁止を訴えた。広島平和文化センター勤務時と退職後も、国内外で証言を務めてきたが、近年は体調が優れない。

 「何としても生きたい。調査票を見て直後の思いがよみがえった。私たちのような苦しくつらい体験を、誰にもさせたくない。その強い気持ちで伝承者には語り継いでほしい」と求める。

 伊藤さんは兄と姉が原爆死した。「幼かったので被爆の記憶はあまりないが、松原さんがどう生きたのかもきちんと伝えたい」と誓う。松原さんと伝承者たちは7日、インターネットを通じて三重県四日市市の児童に語り掛ける。(「伝えるヒロシマ」取材班)