趣味・食・遊ぶ

お寺が消える
  • この記事にコメントする

廃寺いまも 島根・江の川流域編<1>

2015/8/25
写真@廃寺となった西教寺(美郷町村之郷、2010年9月撮影)

写真@廃寺となった西教寺(美郷町村之郷、2010年9月撮影)

島根・江の川流域編<1>
 廃寺いまも

 中国山地再訪の旅を始めてほどない2010年初夏、江の川中流域の島根県邑智郡で一つのお寺が長い歴史を閉じた。美郷町(旧大和村)村之郷の西教寺。開基から300年を超える浄土真宗本願寺派のお寺である。住職不在が長期に及んだこともあって、地元の受け止め方は冷静だが、お寺を失う寂寥感は深い。もう一つ、邑南町(旧羽須美村)上田の了泉坊も、門徒がお寺を支えきれなくなり廃寺手続きに入った。

 西教寺が廃寺に向けて動いている、という話を耳にしたのは2010年の春先だった。このお寺は、邑南町高原から江の川沿いの美郷町都賀行へ抜ける最短コースの県道わきにあり、通りがかりに何度も目にしていた。赤瓦の美しい小ぢんまりした本堂は、周囲の景観に熔けこみ、落ち着いたたたずまいを見せる。車からはごくありふれたお寺としか見えず、住職や家族がいて門徒たちが出入りする姿を勝手に思い描いていた。<写真@参照>

 それがどうして廃寺に? 車を降りて門徒の一人、玄田羊治さん(1931年生まれ)に会った。
 「住職の清水光範さんが去年(2009年)の9月に80歳で亡くなりんさった。長患いで、7年も地元や三次市の病院におりんさってのう。坊守の政子さん(住職の母)も住職より半年前に老人ホームに入って、おととし(2008年)100歳で死にんさった。留守の間、お寺は門徒が守りをしよったんよ」。住職の妻は二人の娘を残し若くして急死、先代住職が1969年に亡くなったあと、15世住職に就いた光範さんは娘を育てながら、母とお寺を守ってきたのだという。
 玄田さんの話を聞きながら、住職と坊守が前後して不在となり、7年の間続いてきた西教寺門徒の苦悩を思った。長女は滋賀県に嫁ぎ、次女もまた大阪で教師として働いていて、お寺を継ぐことはできない。20軒にも満たない門徒たちは、住職亡き後、幾度となく集まって思案を重ねた。しかし結局、あとを継いでくれるあてはなく、ご本尊の阿弥陀如来像を本山に返納する決断を下し、廃寺の道を選んだ。

 西教寺の歴史は17世紀後半にさかのぼる。毛利氏の庇護のもと石見一帯に浸透した浄土真宗は、江戸時代初期に旧在地領主層が相次いで仏門に入る風潮のもと、急速に勢力を拡大した。1670年代、そんな在地領主の一人、湊玄蕃が江の川沿いの比敷(美郷町=旧大和村)に仏堂を開いたのが始まりと伝える。1707(宝永4)年に現在地・村之郷に移り、寺号を「西教寺」として本格的な布教活動に乗り出した。
 以後、大正期に至るまで「湊」姓を名乗る住職が続いたが、1926(大正15)年、第13世住職の死去に伴い、江の川流域・川本町川下の浄福寺から清水行円住職が後任として入り、1969年まで第14世を勤め、そのあとを継いだのが最後の住職となった光範さんだった。その間、戦後間もない1946年暮れ、茅葺の本堂を瓦に葺き替える工事中に火災に見舞われ、本堂、庫裡とも全焼。近隣の空き寺の本堂などを移築して翌年完成した。それから60年余り、地域と共に歩んできた西教寺だったが、第16世住職に就く人を見つけることはできず、2010年7月4日、本堂での閉山法要を最後に300年余りの歴史にピリオドをうった。

 近所で聞いた老女(1922年生まれ)の話に胸を打たれた。「坊守だった奥さん(住職の母)には特別お世話になってのう。本堂が焼けた時にゃあ、奥さんが本堂へ飛び込んで、ご本尊を運び出しんさったと聞いとる。老人ホームへ見舞に行ったとき、手を合わせて『すまん、すまん』言うて、念仏を唱えんさった姿をよう忘れん」。嫁(住職の妻)を早く亡くし、二人の孫娘のめんどうを見ながら坊守をつとめ、住職である息子の病気を気遣いながら、老人ホームで7年余を生きた歳月。話してくれた老女も、廃寺を覚悟していたとはいえ、坊守が火災から守り抜いたご本尊が、本堂を出て本山へ向かうときはいたたまれなかったと涙ぐんだ。
 閉山から半年たった2010年の暮れ、このお寺の前を通ったら本堂は解体され、跡地がきれいに整地されていた。ただ鐘楼だけは門徒の強い希望で残され、道路に面してぽつんと立っていた。<写真A参照>

 もう一つ、廃寺手続き中の了泉坊は、邑南町役場支所で教わった通りの道を地図を見ながら走り、途中で何度か道端の人に確認してようやくたどり着いた。周りに一軒の家もなく、棚田の跡に植えた杉が階段状に連なる谷間。本堂は裏山の竹やぶに包み込まれるように、ひっそりと荒れ果てた姿をさらしていた。<写真B参照>
 参道を入ってまず目に入るのは、広い屋根のずり落ちかけた瓦、半分はがれ落ちた棟のしっくい。正面両側の軒はすでに崩れ始め、境内に瓦が散乱している。本堂前には落下する瓦の危険に備えてロープが張られ、階段から廊下にかけて雨漏りによる腐朽を防ぐブルーシートがかけてある。本堂わきに建つ総二階づくりの堂々とした庫裡には、むろん人の気配はない。まるで時が止まったような錯覚に襲われる。静まり返った境内に、時折カケスのけたたましい鳴き声が響いた。

 本堂と鐘楼の2ヵ所に、透明のビニールで覆われた黄色の真新しいボードが見えた。「公告板」と手書きされたボードに、2枚の紙が画鋲で留めてある。近寄ってみると「合併公告」とあり、日付は「平成22年6月20日」。1枚は門徒向け、もう1枚は債権者に向けた文書だった。
 門徒向け文書には代表役員代務者、つまり了泉坊代務住職で浄福寺住職の小玉教雄さん(1944年生まれ)の名前と印鑑が押してある。記載された合併契約案には@浄福寺が了泉坊を吸収合併A化(け)教(きょう)地域も吸収合併B本尊は浄福寺に安置C権利義務は浄福寺が継承D門徒は浄福寺に所属し門徒名簿に登録−とある。一方、債権者向けには、合併に異議があれば2ヵ月以内に申し出るよう求めている。
 このいかめしそうな「合併公告」は、宗教法人法に基づく廃寺手続きが始まったことを示す。了泉坊の場合、所属する「千(ち)須賀組(すがそ)」を経て山陰教区に送られ、さらに本山での協議を経て廃寺の事務処理は完了する。

 了泉坊は1609(慶長14)年開基と伝える文書が西本願寺に残る。本節のはじめに触れた西教寺より100年近く古く、400年の歳月を経てきた。最後の住職、第20世の武田利観さんは1988(昭和63)年、70歳で病没、坊守(妻)の照子さんもほどなく広島の病院に入り、老人ホームに移って88歳で亡くなった。二人の間に子どもはなく、県境を越えた広島の縁続きのお寺がしばらく管理に当たったあと、了泉坊に最も近い浄福寺が代務住職を勤めてきた。その浄福寺は、先代住職が2009年に亡くなる前、娘婿で西本願寺に在籍していた山口出身の教雄さんが戻ってあとを継いだ。
 本願寺の実務に精通している小玉さんは、住職を継いでまもなく了泉坊の実情を知り、廃寺の手続きにかかった。それが、先に紹介した「合併公告」である。

 廃墟同然の了泉坊を訪ねたあと、浄福寺で小玉さんに会った。門徒や近隣のお寺から「やり手住職」と一目置かれる小玉さん、開口一番「ここは過疎の中の過疎。地域の衰退は一寺院の力を超えた問題だ」と言い切った。「共同体の原点であるお寺は、江戸時代まで福祉、教育を担い、人の心のありようの土台を提供してきた。近代以降、それらを役所が吸い上げて、『心』がそぎ落とされ、お寺はやせ細ってしまった。安芸にしろ石見にしろ、お寺は昔の遺産でメシを食っている」。
 小玉さんは衰退に至る流れを客観的に分析し、次のように付け加えた。「お寺だけでメシを食うには二世帯同居で300戸は必要だ。兼業でお寺を支えるのも一つの方法かもしれないが、ふさわしい職があるだろうか。役場、学校、福祉の職場は、椅子取りゲームのように椅子が次第に減っている。また、お寺が『寝たきり』のような状態では、お寺同士の恋(婚姻)の時代も終わった」。歯に衣着せぬ弁舌を聞きながら、さすがに「やり手」と評されるだけのことはあると思った。

 しかし、小玉さんが言う「二世帯同居」は中国山地のどこを訪ねても数えるほどしかなくなり、まして「門徒300戸」のお寺となると、江の川流域では限りなくゼロに近い。人々の苦悩は、そんな現実にこそある。地域を襲う風・雪・水害、凶作、たたら製鉄の浮沈、門徒に降りかかる災難や不幸…。歴史を振り返るとき、この地のお寺はその都度、地域や門徒に寄り添い、苦楽を共にしながら、抜き差しならない現実と向き合ってきたのではなかっただろうか。

 ところで、了泉坊の廃寺を確認しようと、2011年春に改めて電話を入れると、合併ではなく宗教法人解散に切り替えたという。その理由について小玉さんは「共倒れを防ぎたいから」と言葉少なに言った。「合併」も「解散」も廃寺手続き上はほぼ同じだが、解散の道を選べば、少なくとも本堂の解体など事後処理の責任を浄福寺が負うことはなくなる。

※2012年1月19日に旧ブログ掲載

写真A解体され更地になった西教寺跡(2011年4月撮影)

写真A解体され更地になった西教寺跡(2011年4月撮影)

写真B廃寺手続きが進む了泉坊(邑南町上田)

写真B廃寺手続きが進む了泉坊(邑南町上田)

この記事に対するコメント
一覧

  • コメントはありません

  • この記事にコメントするへ
  • 前の記事へ
  • 次の記事へ

 あなたにおすすめの記事

記事一覧