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言ノ葉ノ箱
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広島の、あの道へ

2015/8/10

 この連載は、2009年の1月から始めたのだが、昨年末までの6年分を一区切りとして、フォトエッセー集「七つ空、二つ水」(キノブックス)にまとめた。その刊行記念イベントのために、久しぶりに広島を訪ねた。
 連載のきっかけは、2008年に、「高校生のための文化講座」で広島を訪ねた際に、中国新聞の方に取材していただいたことなのだが、私の出身地が広島であることも理由の一つだった。実は、出身といっても生まれて1年あまりで引っ越してしまったため、当時の記憶はないのだが、11歳のときにふたたび広島にやってきたのである。その後3年半、広島市の高須という町に住んだ。

高須駅(筆者撮影)

高須駅(筆者撮影)

 書店でのイベントを終えた翌日、広島電鉄にゆられて、高須を訪ねた。あのころと同じように路面を走る電車に揺られて降り立ったその駅は、驚くほど当時のままだった。ずっと昼寝を続けていたら、いつのまにか何十年もの時が過ぎてしまった。そんな印象である。
 地上の停車場のまわりには夏草が生い茂り、まだ梅雨の明けていない蒸し暑い空気の中に青い匂いを放っている。住所は控えていたが、現地に降り立つと、自然に自宅のある方向が分かった。そうそう、こんなふうに畑があって、道が分かれていて、とおぼろげだった記憶が、だんだん現実のものとして鮮明になっていく。
 私が広島に2度目にやってきたときも、7月だった。家に向かう道の途中にいちじくの木が何本も植えてある場所があった。よく熟したいちじくの実の底が裂け、いちじくがもぎ取られた枝からは白い汁がしたたっていたのを覚えている。いちじくの木を、初めて見たのだ。
 その場所らしきところに畑はあったが、いちじくの木は見当たらなかった。あのころ、広島はいちじくが名産なのだと思い込んでいたのだが、局所的なことだったようだ。

広電と線路脇の通学路

広電と線路脇の通学路

 自宅は、父が勤めていた企業の社宅で、シンプルな形の白いアパートだったのだが、隣にあった独身寮と共に、現代的なマンションに変わっていた。走りまわったり、花を植えたりした広い庭は、マンションの駐車場として活用されているようだった。私たちがかつて住んでいたところで、私たちの知らない人の人生が進んでいる。

眉あげて行く如き死に友ら過ぎその悲しみを生きて吾が追う

近藤芳美


 

 近藤芳美は、父親の故郷である広島で青春時代を送った。志半ばで亡くなった「友ら」には、原爆や戦場で亡くなった人がいたことだろう。私が住んでいた当時、玄関先に「遺族の家」という小さな札を掲げている家を見かけた。戦争で失った家族がいるということだが、今回は一軒もその札を見ることはなかった。

通っていた古田小

通っていた古田小

 自宅のあった場所から、通っていた小学校を目指した。線路脇の、なだらかな坂のある一本道を毎日歩いた。浮き浮きした気分の日も、悲しい気持ちの日も、とにかくひたすら歩いていたことを、まざまざと思い出した。

(歌人・作家)


              

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