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言ノ葉ノ箱
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岩国の森と海

2016/7/29

 先日、東京の「ポレポレ東中野」という小さな映画館で、「ふたりの桃源郷」という映画を見た。岩国市美和町の山奥で暮らす老夫婦とその娘たちを描いたドキュメンタリーである。25年に及ぶ撮影から浮き彫りになる人生の深い味わいに、とめどなく涙がこぼれて仕方なかった。
 戦災で家をなくしたために、山を開墾して住んだというその家には、電気もガスも水道も通っていない。高度経済成長期には、子どもたちの教育のためにその山を下りて街で生活していたが、子育てを終えた60代で、夫婦は再び山に戻ってきて二人きりの自給自足生活を始めたのだった。
 深い森の美しい自然の風景の中で、お互いを慈しみながら暮らすその営みの一つ一つが胸に刺さったのは、ゆっくりと老いていく肉体の切なさが如実に感じられたからである。実直で素朴な人のまなざしは美しく澄んでいて、老いと死を自覚しつつ、最後は不変の自然そのものになろうと願っていたように思えてならなかった。
 

「ふたりの桃源郷」チラシ

「ふたりの桃源郷」チラシ

 映画館に置いてあったチラシを見て行ったのだが、撮影地が岩国だったことを知ったのも大きな動機である。実は先月、岩国を訪ねたところだったのだ。
 私が訪ねたのは、JR岩国駅から車で15分ほどの所にある岩国市中央図書館。「現代短歌、古今東西」というタイトルで、現代短歌の楽しみ方や、時代とともに変遷してきた青春歌について、講演をした。
 この図書館に、田中稲城氏の銅像があり、「図書館の父」という言葉が添えられていた。田中氏は、日本の国立図書館だった帝国図書館の初代館長となった人である。岩国の出身だそうだ。米国や英国で図書館学を学び、国立の図書館の必要性を訴え、実現に結びつけた。「図書館は国民の大学です」という言葉を残している。

 

田中稲城翁像

田中稲城翁像

 これまでさまざまな街で暮らしてきたが、転居するたびに、自宅から一番近い図書館をすぐに調べた。東京・八王子の新興住宅地に引っ越したとき、近所に図書館がなかったことが残念でならなかったのだが、しばらくすると新しい図書室ができることになって、とてもうれしかったことを覚えている。できたばかりの頃は、毎日のように通ってしまった。なんだかそこに行くだけで、なんともいえない安堵(あんど)を得られたのだ。
 何万冊もの本が棚にびっしりと入った本の森。本はいつでも黙って見守ってくれている。田中氏らの恩恵を今、私たちは受けているのだ。
 ふと、岩国の山奥の森と、本の森とがつながる。思えば、本の素材である紙は、森に生える木である。本がもたらす独特の安心感は、その素材によるところも大きいのかもしれない。
 

岩国錦帯橋空港

岩国錦帯橋空港

 講演の前日に、東京から飛行機に乗り、岩国錦帯橋空港に降り立った。この空港は、もともと軍用の飛行場として建設され、戦後は主に米軍に使われてきたが、2012年に現行の軍民共用となった。
 空港の2階から、瀬戸内海に面した工場が見えた。曇天に白い煙を送り出す細い煙突をしばらく眺めた。

君の見る虹の右足ひだり足すこやかに老いてゆけますように
                   服部真里子

                 (歌人・作家)

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