趣味・食・遊ぶ

言ノ葉ノ箱
  • この記事にコメントする

ニュータウンの歴史

2013/10/29
 生活再建センター記念碑

 生活再建センター記念碑

 折にふれて訪ねる神社に、「記念碑」と大きな文字で彫られた石碑がある。和歌でも刻んであるのかと近づいてそこに書かれている文字をよく読んでみると、昭和の出来事を記念したものだった。

多摩ニュータウンの模型

多摩ニュータウンの模型

この辺りは多摩ニュータウンと呼ばれる地域で、昭和30年代に開発が始まった。そのときの土地の買い取りの地域格差の是正などのために設立された、土地提供者を中心とする生活再建センターがあった場所なのだそうだ。昭和61(1986)年には時代の推移に伴い、センターは神社の社務所として奉納したとある。記念碑は、ここが運動発祥の地であることを示すために建てられたもの、とのこと。ニュータウンにも記念碑が建つほどの歴史がある。街を開発するために掘り起こした土から遺跡が発掘されたが、その土の上で営まれてきた生活にも歴史が積み重なっている。
 多摩市の建てた公共施設の中に、ニュータウンの資料を展示している小さな歴史ミュージアムがある。農村だったころに人々が使っていた道具と共に、ニュータウンの全体のジオラマが展示されていた。それらを見渡すと、団地ができる前は緑深い山であったことがよく分かる。団地は、人が一生懸命こしらえた白い巣のようだ。


昭和19(44)年ごろ、都会の子供たちがこの辺りに集団疎開をしていた歴史がある。各地の寺院のお堂に布団を敷いて寝泊まりし、早朝から住職と一緒にお経を唱え、清掃を手伝ったりしていたそうだ。配給の米や農家がくれた食材で食事を賄い、衣服は川で自分たちで洗濯をし、お風呂は近所の農家で貸してもらったりした。
 まだまだ親が恋しいはずの小学生には苦労も多かっただろうが、蚕の繭を取ったり、草を摘んで食材にしたり、サツマイモ掘りをしたり、案外田舎生活を楽しんでいる様子の作文が、この歴史ミュージアム編さんの冊子「街から子どもがやってきた」に掲載されている。


こちらへくる途中のけしきは、いいようがありません。

たんぼの稲は、すこしたれさがって、ところどころにせの高いのや、

ひくいのがありましたが、日が出ると、お日さまのように、きいろく、

ぴかぴか光ります。

そのたんぼのむこうのほうには、山があって、その山には、

みどり色の葉や草が生えています。さつまいもの畑には、

畑じゅういもの葉がいっぱいうずまっています。


 疎開のできる田舎に親戚縁者がいない子たちが集団疎開をしていたので、こうした田舎には初めて来たのだろう。目に見えるものを順に追って書く言葉の端々に、新鮮な驚きが伝わってくる。

吉祥院の防空壕

吉祥院の防空壕


 これを書いた子がいた吉祥院というお寺に行ってきた。疎開生活が続く中、戦争は激しさを増し、空襲は次第にこの辺りまでやってくるようになり、防空壕(ごう)が造られた。この寺にも三つあったということだが、小高い丘の上の墓から裏山を横切ったところにひっそりと、一つだけ残っている。草木に覆われた穴の中をのぞくと、石がぎっしり詰まっていた。当時の悲しみや苦しみを詰め込んで、二度と出てこないよう、ふたをするように。

(歌人・作家)

この記事に対するコメント
一覧

  • コメントはありません

  • この記事にコメントするへ
  • 前の記事へ
  • 次の記事へ

記事一覧

 あなたにおすすめの記事