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詩人のりんご
何メートルもある巨大なパネルに、つやつやした赤いりんごが一つ、ぽつりと設置してある。パネルには一面文字が書かれていて、「りんご」という言葉がちりばめられている。
≪紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。≫
パネルの言葉は、こんなふうに始まる。これは、谷川俊太郎さんの詩である。「りんご」というものの存在をあらゆる角度から切り取り、広げ、考察している。最後は「答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに……」と結ばれている。
このりんごのパネルは、1月13日から3月25日まで東京オペラシティアートギャラリー(東京都新宿区)で開かれていた「谷川俊太郎展」の展示の一つである。
最初の部屋では、壁一面に整然と設置された液晶パネルから、「かっぱ」などの言葉あそびの詩が谷川さんの声でこぼれてくる。そこから、メインの部屋へ。谷川さんの私物−蔵書、パソコン、小物、手紙、Tシャツ、写真、工具類などが立体的に展示され、その間で、美しいフォントでデザインされた谷川さんの言葉を、パネルや大きな本の見開きで読むことができる。この部屋を抜けると、詩を刻んだ白いパネルのみが壁に貼ってあるシンプルな展示の部屋がある。詩の対面に椅子が置いてあり、座ってゆっくり読むことができる。
様々な形で詩を浴びながら、体感を刺激される。詩人の詩作の空間に迷い込んだようで、ときめく。小さな瀬戸物の人形を見ながら、こういうものが好きな一人の人間が生み出した詩だと、という想(おも)いを強くしたのだった。
≪家には仏壇も神棚もありませんが≫
「自己紹介」という詩の中のこの一行が書かれた棚には、谷川さんの両親の写真が飾ってある。このお父さんは、哲学者の谷川徹三さん。その一人っ子として生まれてきた俊太郎さんは、彼らの写真を仏壇や神棚ではなく、居間に飾っている、ということを知る。
こんなフレーズも目に留まる。
≪詩の行間に「私」はいない いるのはまだ言葉を知らない 幼い詩の子どもたち≫
「詩の行間」は、言葉の余白から生まれるポエジーそのものを指すのだろう。「行間」は立派にできあがっているものではなく、誰かがその詩を読むたびに新しく生まれるのだ、ということを柔らかく伝えているのだと思う。谷川さんの作品は、いつも初めて読む人のために、しずかに開かれている詩だと、改めて思う。タイトルは「ではまた」である。
ところどころに、メモのような紙が仮止め用の黄色いテープで止めてある。そこにフェルトペンで手書きされた、思いつきのようなその言葉が、ふと深く胸に沁(し)みる。
≪理想のアップルパイに まだ出会っていません。≫
(歌人・作家)
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