カープ

【第5部 言葉の力】<1>電撃復帰 「約束」信じる人がいる

2016/12/25
ヤンキースタジアムで登板する黒田

ヤンキースタジアムで登板する黒田

 米国で経験を積み、応援してもらうことが当たり前ではないことを感じた。世界の広さも経験する中、広島という小さな町に僕のことを待ってくれる人がいる。メジャーで投げる以上の充実感があるのではと思った。(2015年2月16日の復帰会見)

 8年ぶりとなる広島東洋カープへの復帰を黒田は電撃的に決断した。14年12月26日午前10時すぎ、球団本部長の鈴木清明に「帰ります」と米国から連絡。自宅のあるロサンゼルスは現地時間12月25日午後5時すぎだった。

 ▽きっかけを模索

 この日、早朝に目覚め、ずっと悩んでいた。条件提示の金額はパドレスが年俸21億円、ドジャースも同18億円プラス出来高と破格だった。カープは総額4億円。40歳で迎えるシーズンだけに、現役最後の決断になることだけは分かっていた。同日午前8時すぎ(日本時間26日未明)、ロサンゼルスから広島の知人に電話をかけている。

 「パドレスはないよ」。そんな助言には「勝手に決めるな」と腹を立てた。「(家族と暮らせる)ドジャースなら仕方ない」と言われると「本当にそれでいいのか」と自問自答。「カープしかない」という意見には聞き入った。迷いは復帰のきっかけを模索しているかのようだった。

 結論が出ないまま電話を切り、それから約8時間後に決断した。「最後は何が何だか分からなくなって決めた」。復帰を知ったファンが驚喜しながら迎えた新年、黒田は睡眠薬を服用しなければならないほど憔悴(しょうすい)していた。重すぎる決断だった。

 ▽海を渡って知る

 それでもメジャー移籍後を振り返れば、筋の通った足跡があった。メジャーデビューとなった08年4月のパドレス戦。黒田は7回を1失点に抑え、初先発初勝利を飾った。試合後、ドジャース担当の人数を上回る日本人記者を前に自ら切り出した。「スタンドに背番号15で僕の(カープの)ユニホームを着た日本人がいた」。ヤンキースに移籍後も、キャンプ地フロリダ州でカープの背番号15を着たファンの姿に喜んだ。

 「もし、日本に帰ってプレーするならカープしかない」。大リーグに移籍する際に発した言葉が、広島で生き続けていることも実感していた。帰国して知人らと食事に行った飲食店の大将や乗車したタクシーの運転手、仲間と楽しむゴルフ場でのキャディー、広島土砂災害の被災地では家を失った人にも問われた。「カープに帰ってこないんですか」

 決して「日本に帰る」と約束したわけではない。しかし、約束と受け止め、信じて待っている人が広島には大勢いた。海を渡って初めて分かったことだった。=敬称略(木村雅俊)


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