生きて

生きて 元プロ野球選手 広瀬叔功さん(1936年〜)

  • <12> 故郷を愛す 友人に囲まれ地域貢献も (6/9)

     ダイエーのコーチを1992年限りで退任した後は、故郷の広島県大野町(現廿日市市)での生活に 友達がたくさんいて、生まれ育った古里に帰ることにした。大企業の社長とも付き合った大阪とは違って、大野は旧知...

  • <11> 3年連続Bクラス しぶしぶ就任 監督の苦悩 (6/8)

     1977年のシーズン終盤、「公私混同」を批判された野村克也監督が解任。バトンを引き継ぐ この年限りで現役を引退し、監督就任を要請された。正直、やりたくなかった。コーチの経験はない。飲んだくれて自由奔...

  • <10> 昭和のイチロー 天才肌で安打を量産 (6/5)

     天才肌の打撃職人。1963年に187安打を放つ。94年にイチローさん(オリックス)に抜かれるまで、パ・リーグ最多記録だった 極意か。それは「来た球を打つ」。内角なら右脇を締めて、外角はおっつける。そ...

  • <9> 走塁のスペシャリスト けん制球の連発に発奮 (6/4)

     1961年から5年連続で盗塁王に輝く 数にこだわりはなかった。行ける時に成功させるのは誰でもできる。西鉄との対戦や巨人との日本シリーズなど、ここぞの場面で成功させるのが本当の盗塁なんだ。塁に出ると親...

  • <8> 盟友・野村克也 飲み仲間と門限破りも (6/3)

     ともに南海の黄金期を築いた野村克也さんとはプライベートでも親交が深かった ノムやんは1歳上。入団したての頃は宿舎の風呂や便所掃除を一緒にした。どちらがどの担当かは忘れたが、「広瀬の掃除場所の方が楽で...

  • <7> 尊敬する親分 鶴岡監督に師事し仲人も (6/2)

     同じ広島県出身の鶴岡一人監督を尊敬していた 南海の選手は敬意を込めて「親分」と呼んでいた。わしにとっては第二の親で尊敬していた。選手に悪いことはさせないし、人付き合いにも目を光らせていた。わしは、ち...

  • <6> 契約金ゼロ 故障し投手から野手へ (6/1)

     1955年、南海に投手として入団 月給は1万5千円ぐらいで契約金はなかった。球は速かったけど、賢い投球はできないし、制球にも自信がない。投げ方が悪かったから肩と肘が痛くなってすぐに故障した。こんなん...

  • <5> 転機 新聞記事に触発 野球再開 (5/29)

     大竹高入学を機に、いったん野球から離れた 毎日が憂鬱(ゆううつ)で、学校をやめたくなった。なぜなら連日のように野球部に勧誘されたから。授業が終わると先輩が待っている。「おい広瀬、野球部に入れよ」と言...

  • <4> 野球との出合い 唯一の娯楽 見よう見まね (5/28)

     終戦後、野球を始める 大野の人にとって娯楽は野球ぐらいしかなかった。青年団が野球をして遊んでいるのを眺めていた。小学校の担任が放課後に「おーい、やろうか」と誘ってくれて、見よう見まねで始めた。綿を布...

  • <3> 原爆 兄奪われ、怒りこみ上げる (5/27)

     1945年8月6日。大野西国民学校のグラウンドから原爆投下の瞬間を目撃する ピカドンだな。思い出すのも話すのも嫌。今でも涙が出てくる。つらいけど記憶をたどろう。 夏休み中の登校日で、芋畑があるグラウ...