
広島原爆による被害の実態は、いまだに分かっていないことが多い。「1945年末までに14万人±1万人」とされる死者数も、推計値にとどまっている。長期連載を通して、公的記録に記されていない一人一人の死者の存在をはじめ、さまざまな「ヒロシマの空白」を埋めようと試みている。2020年度の新聞協会賞を受賞した。
▼ 埋もれた名前

原爆犠牲者8万9025人把握 広島市、推計14万人と開き
【連載】埋もれた名前
<1>「一家全滅」 70年余公的記録なし
<2>全国調査の壁 全容把握に消極的な国
<3>幼い犠牲 生後数時間、名なき命
<4>「軍都」広島 各地から応召、犠牲に
<5>学徒出陣 大学の調査、最近から
<6>朝鮮半島出身者 多数犠牲、解明には壁
<7>北朝鮮の被爆者 国交なく援護対象外
<8>白系ロシア人 亡命一家をほんろう
<9>検視調書 5万人余の記録不明
<10>新資料 宙に浮く事業所名簿
<11>級友の消息 「個人情報保護」壁に
<12>原爆孤児 「推定」79歳、わが名は
消された命の証しあった 旧天神町3世帯6人の被爆死、本紙確認
壊滅の悲惨さ浮き彫り 旧天神町3世帯6人の被爆死
▼ 帰れぬ遺骨

帰れぬ遺骨 家族はどこに
【連載】帰れぬ遺骨
<1>「梶山ハル」さん 祈念館の遺影、糸口に<2>「琢夫」と「宅雄」 墓の骨は誰、募る疑問
<3>天神町66番地 資料館周辺、生活の場
<4>名字の手掛かり 証言集に「麓」さん表記
<5>遺族それぞれ 供養塔も「家族の墓」
<6>寺の納骨堂 名前記載、眠ったまま
<7>子守り地蔵 小さな「かけら」供養
<8>似島の土の下 1人で発掘「まだある」
<9>政府の立場 収集「地方がやること」
<10>県北の集落で 死者の無念思い続け
<11>母の日記 捜し続けた子、どこに
▼ さまよう資料

資料の散逸 阻まれた研究
【連載】さまよう資料
<1>米軍返還資料 標本に急性症状の痕跡<2>技術の進歩 内部被曝、細胞貫く筋
<3>被爆者カルテ 健康追跡で膨大な蓄積
<4>米軍撮影写真 被害実態、鮮明に語る
<5>戦勝国の兵士 遺品に焼け跡写す一枚
<6>被爆者手帳の申請書 保存基準なく廃棄も
<7>解散団体の記録 各地の歩み、無二の財産
<8>「原本」の重み 屋外動員に教師は反対
<9>被服支廠 手記や遺品、国・市にも
<10>被爆者の「終活」 痛みや歩み「継承を」
▼ 国の責任を問う

被害の全て、償われたか 死没者への救済、国は放置 生存者援護も限定的
【連載】国の責任を問う
<1>給付金の「線引き」 「遺族も被爆」が条件<2>まどうてくれ 全ての死者に償いを
<3>追悼平和祈念館 死没者銘記まだ一部
<4>「分断」にあらがう 空襲・原爆、共に被害者
<5>被爆者健康手帳 91歳でやっと手に
<6>原爆症認定 「放射線起因」に限定
<7>内部被曝 広範囲に「黒い雨」
<8>被爆2世 「遺伝」未解明、援護の外
<9>禁止と廃絶 「生き残った者の務め」
▼ つなぐ責務

埋もれた犠牲者、海外にも
被害に迫る営みを未来へ
【連載】つなぐ責務
<1>市民の手で 75年経て肉親記載へ<2>遺族捜し 「まだ発見あるはず」
<3>資料の活用 公開情報に眠る事実
<4>問い直す 援護の外、見えぬ被害
<5>被害実態の発信 「絶対悪」繰り返させぬ
<6>諦めない 一人一人の命、忘れぬ
▼ 街並み再現
本通りで生きていた被爆前
【連載】本通り
<1>理髪店主のアルバム<2>キリンビヤホール
<3>袋町国民学校
<4>商店街
<5>探し続けて
【連載】旧中島地区と周辺
<上>旧中島本町<下>旧材木町など
にぎわう八丁堀、戦前から
八丁堀、壊滅前の活気 中国新聞写真サイト、新たに110枚加わる
本川地区 児童や職人で活気
基町と周辺 軍都の象徴
国泰寺町 夢抱いた学びや
広島駅 「軍都」の玄関口
被爆前の写真、ウェブに1000枚 読者提供続々
貴重な写真続々 日常のカケラ、埋めていく
暮らし語る100枚 福山の遺族が写真保管
爆心地の島病院、継ぐ思い
島病院に犠牲者名簿 爆心地、19年夏発見41人分記載
写真が刻む被爆前の慈仙寺
被爆前のげた工場、職人に活気
▼ ニュース
犠牲814人の遺族探して 広島市、全国に名簿発送原爆供養塔の納骨名簿、全国で掲示 返還へ情報期待
サーローさん、映画で追う NY在住・被爆2世の竹内さん製作
原爆罹災者名簿を公開 6日まで広島国際会議場
8・6前日、笑顔のわが家 広島の茶葉店、写真を展示
大正屋呉服店の反物確認 平和公園レストハウス前身、広島の医師保管
姉との日々、反物越しに 天野さん「大切に子と孫へ」
在韓被爆者に健康手帳 金さん、偶然から証人発見
投下前の写真3000枚寄贈 理髪店主ら撮影、資料館が整理
仲良し家族 生きた証し
叔母の最期、調書で発見 広島市西区の中原さん、当時1歳
軍医だった父の面影求めて 医師松本隆允さん、「あの日」と向き合う
亡き兄の弁当箱、捜し歩いた母の日記
県外部隊の被爆死、つながらぬ点と点 追悼祈念館死没者名/広島市動態調査
「歴史」にしない努力を 報道センター長・吉原圭介
▼ 新聞協会賞
新聞協会賞ウェブサイト「ジャーナリズムの力」平和メディアセンター金崎由美センター長スピーチ「一人一人の生きた証刻む」
▽「最期まで自主独立」
27歳。八島ナツヱさんは必死の思いで広島市へ入り、中国新聞社に向かって歩いた。「家族の安否」を何より確かめたかった。被爆者健康手帳の交付申請書に付けていた手記は、上流川町(現中区胡町)にあった社での...
原爆による壊滅直後の広島で被災情報を知らせて回った「口伝隊(くでんたい)」の一員だった女性記者の詳細が判明した。中国新聞社整理部にいた八島ナツヱさん(2006年に87歳で死去)という。自らは「声の新...
▽異常知り自力で入市 1945年8月6日の原爆投下で広島は情報機能も壊滅的な打撃を受けた。県内で唯一出ていた中国新聞は本社が全焼し、犠牲者は114人に上る。生き残った記者たちは「口伝隊(くでんたい)...
「和典」―。裏面に持ち主の名前が残っていながら、本人の消息が分からない被爆すずりが原爆資料館(広島市中区)に所蔵されている。原爆ドーム(同)で1967年にあった第1回保存工事で見つかり、工事の現場責...
広島市は22日、理化学研究所(理研、本部・埼玉県和光市)から昨年引き渡された原爆犠牲者の遺骨のうち、名字を確認していた「伊勢岡」さんの遺族が判明したと発表した。遺族の意向で名前などは公表していない。...
木造家屋が並ぶ一角で、洋風の建物が目を引く。広島市雑魚場町(現中区国泰寺町)にあった日本基督教団広島南部教会。爆心地から約1・2キロで壊滅した。外観を捉えた写真で確認されているのは、この一枚だけだ。...
広島市中区の流川・薬研堀周辺は戦前、盛り場や商店、遊郭が並ぶにぎやかな一角だった。原爆で焼け野原となった後、復興が進む中でネオン街へと変貌した。ゆかりの人から寄せられた写真を通し、街の記憶をたどる。...
「愛国婦人会」ののぼりを立てた着物姿の女性たちが、日の丸を手に並んでいる。満州事変から1年余り後の1933年1月、中国大陸から宇品港(現広島港、広島市南区)の軍用桟橋を渡って帰還した兵士たちを出迎え...
▽欠かせぬ長期解析 原爆のさく裂時に大量の放射線を浴びてはいない「黒い雨」の経験者や入市被爆者も、健康被害を訴えているのはなぜなのか。長年、放射性物質を体内に取り込む内部被曝(ばく)の可能性が指摘さ...