生きて

<1> 幸せな人生 東京五輪で「金」の快挙

生きて 柔道家 中谷雄英さん(1941年〜)2014/11/25 5:00
「金メダルが僕の人生を変えました」と話す中谷さん

「金メダルが僕の人生を変えました」と話す中谷さん

 中谷雄英(たけひで)さん(73)=広島市佐伯区=は柔道界で最初の五輪金メダリストだ。日本の「お家芸」柔道が正式競技となった1964年の東京五輪軽量級での快挙だった。現役引退後もコーチや審判員、全日本柔道連盟理事として五輪柔道に携わり、世界各国で競技普及に貢献。九段となった現在も広島県柔道連盟理事長などを務める傍ら、母校広陵高で後進の指導を続ける。全国各地へ応援に出掛け、今なお柔道への情熱は衰えていない。

    ◇

 僕ほど幸せな柔道人生を送った人はなかなかいない。被爆の傷痕が残る広島で12歳の時に出合ってから一度も離れたことがない柔道は人生そのもの。「雄英から柔道を取ったら何も残らないから」とわがままを許してくれて、一筋に生きさせてくれた家族や兄弟、周りの人には感謝してもしきれない。支えがあったからこそ、選手だけではなく海外でのコーチや審判員、海外普及員や連盟役員とさまざまな立場で柔道に関わり、専門家になることができた。

 今思えば、柔道に関して僕は抜群に運がいい。高校に入学し直したから練習がたくさんできる大学4年で東京五輪を迎えられたし、手首のけがを負ったから小柄ながら奥襟を取るスタイルを確立できた。何より軽量級から順に試合があったので最初の金メダリストになれた。他国の審判員辞退でアトランタ五輪の審判員として畳に立てたことや、広島県柔道連盟理事長として広島でアジア大会と国体を経験できたことなど、選手時代以降も恵まれてきた。

 完成したばかりの日本武道館が舞台となった東京五輪柔道競技。5試合全てで一本勝ちし金メダルを取ってから、10月で50年を迎えた

 物にはあまりこだわらない方だけど、人生を大きく変えた金メダルだけは漆の箱に入れて大切に保管している。本家日本の優勝は当然というプレッシャー、武道館に詰め掛けた観衆1万5千人の地鳴りのような歓声と渦巻く熱気、センターポールに初めて掲げられた日の丸。金メダルを手に取ると、半世紀がたつ今でも当時の様子や柔道と歩んできた日々がありありと目に浮かびます。(この連載は運動部・藤田龍治が担当します)

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