生きて

<1> 人生は学びと挑戦 教えの数々生きる糧に

生きて 元プロ野球監督 山本一義さん(1944年〜)2013/9/10 0:00
カルチャー講座で野球の魅力を語る

カルチャー講座で野球の魅力を語る

 広島商高、法政大時代から左の強打者として鳴らした。広島東洋カープでは生え抜きのスターとして弱小球団を支えた。長嶋茂雄、王貞治らとの出会いを糧に技術と理論を磨き、多くの選手を育てた−。山本一義さん(75)=広島市中区=は今、野球一筋の歩みから得た積極的な生き方を、大学や講演会で説き続ける。

    ◇

 プロ野球のヒーローにあこがれ、木の棒でバットを作っては、毎日振った子どものころから、65年以上の歳月が流れました。この間ずっと大好きな野球を続け、野球に関わることができました。しかも、古里広島の球団に四半世紀近く在籍して、最高に幸せな人生だと思います。

 高校時代にはでっかい本塁打を連発し、ストライクゾーンに入った球は全部打てる気がしました。でも、プロで壁にぶち当たり、もう中距離打者でよいと観念もしました。堅物といわれ、不器用といわれた私を、岳父(児玉清三元乳菓ビガー本舗社長)は「つぶしがきかない」と評したことがあります。

 そんな私が、副業なしのプロ野球一本で生きることができたのは、多くの人々と出会い、積極的な生き方を学んだからです。長嶋、王、野村克也…。人生の節目で出会ったスーパーヒーローは、みんな失敗を恐れず挑戦を続ける人たちでした。

 今年、中国新聞文化センターのカルチャー教室で開いた講座の題名を「人生は学びと挑戦」とした

 私がカープの主力となった1967年。甲子園球場の試合が雨で流れた日にある新聞社の人が、野村さん(南海)方へ連れて行ってくれました。立派な門構え。長い石畳。庭には、アメリカで開発されたばかりのバッティングマシンが…。

 特に驚いたのは、バットの乾燥室です。湿気でバットの重さが変わるのを防ぐためです。バットの乾燥室なんて、私は全く知らなかった。当時私は、予備のバットを球場のロッカールームに置いており、重さが変わるのに苦労していたのです。

 「目的に向かって、自分自身に投資するのを惜しむな」−。野村さんの無言の教えでした。

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