生きて
<2> 田んぼのガキ大将 野球への夢 膨らむ一方
生きて 元プロ野球監督 山本一義さん(1944年〜)2013/9/11 0:00
1938年7月22日、山本武夫、安子夫妻の長男として生まれた。武夫さんは中国新聞の記者だった
広島市出身で通していますが、実際は呉市吉浦の生まれ。父が呉支局にいたんです。それを知ったのは、カープへ入団した時、父の知人が吉浦の商店街で私のパレードを開いてくれたからです。
(ここまで 135文字/記事全文 840文字)

あなたにおすすめの記事
生きて 元プロ野球監督 山本一義さん(1944年〜)の最新記事
-
<15> 人生是今日が始まり 野球の魅力語り続けて (10/1)
1975年に広島が初優勝した直後、広島刑務所で講演をしました。依頼を受けた松田(耕平)オーナーからの勧めです。不安で夜も眠れなかった。でも、カープ優勝の足跡を話し「人間にとって一番大切なことは、どう...
-
<14> 監督・コーチ・評論家 投手陣崩れ結果出せず (9/28)
1981年11月13日、ロッテの監督に就任した。鶴岡一人氏の推薦だったとされる 前日、突然ロッテ球団から話があり、13日には新聞記者がやって来るという慌ただしさ。考えをまとめる暇もありませんでした。...
-
<13> 恩師・西本幸雄 人の尊重を信念として (9/27)
1980〜81年の2シーズン、近鉄の打撃コーチを務めた。監督は西本幸雄氏だった 79年末、広島を退団した私に電話がありました。「近鉄の西本です。私と野球を勉強してみないか」。信念の人といわれた西本さ...
-
<12> 母の死 懸命の生き方胸に刻む (9/26)
1980年1月24日、母安子さんが亡くなった。66歳だった 近鉄の打撃コーチになった直後でした。姉から知らせがあり、駆け付ける汽車の中で、私は震えていました。前の晩、電話で話をしたばかりで、あまりに...
-
<11> 育てる喜び 人は強くなれると確信 (9/25)
通算打率2割7分。好成績を残し1975年、初優勝後に現役を引退して、打撃コーチに専念した ルーツが監督だった時、コーチ兼選手だった私は、高橋慶彦をスイッチヒッターに育てるよう指示されていました。私が...