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【月刊E・創刊号】市長は「理想」を、知事は「現実」を語った。そして首相も…

2019/8/13 7:00

 にぎやかだったせみ時雨がやみ、いつしかテント屋根をたたく本物の雨音が響き渡っている。被爆74年を迎えた6日の広島市の平和記念式典。会場の平和記念公園(中区)の一角で平和宣言や来賓のあいさつを聞いていて、不覚にも、BGMが入れ替わった瞬間に気付かなかった。

 その平和宣言の第1段落で松井一実市長は「理想」という言葉を2回繰り返した。自慢じゃないが、これにはすぐ気付いた。

 「二度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない理想の世界を目指し、国際的な協調体制の構築を誓ったことを、私たちは今一度思い出し、人類の存続に向け、理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか」

 宣言の真ん中あたりで、市長はさらに2回使う。

 「私たち一人一人が立場や主張の違いを互いに乗り越え、理想を目指し共に努力するという『寛容』の心を持たなければなりません」

 「そして、世界中の為政者は、市民社会が目指す理想に向けて、共に前進しなければなりません」

 式典は、こども代表による「平和への誓い」、安倍晋三首相のあいさつと続く。「ほう」と思ったのは、次の湯崎英彦広島県知事のあいさつだった。しばしば「理想」と対極で使われる「現実」という言葉が、計5回も出てきたからだ。

 「核兵器の取り扱いを巡る間違いは現実として数多くあり…」

 「明らかな危険を目の前にして、『これが国際社会の現実だ』というのは、『現実』という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ、実のところは『現実逃避』しているだけなのではないでしょうか」

 「ましてや、大国による核兵器保有の現実を変えるため、具体的に責任ある行動を起こすことは、大いなる勇気が必要です」

 言葉遣いこそ違えど、市長と知事の認識や訴えの骨格はほぼ同じと考えていいだろう。偶発的な核戦争が起こりかねない国際情勢の「現実」を踏まえれば、核兵器廃絶こそが人類生存の道であって、それは実現不可能な「理想」では決してない。むしろ市民社会と為政者が手を携えて目指す現実的なゴールと捉えるべきではないか―。

 ところが安倍首相は式典後の記者会見で、こう発言した。「核兵器禁止条約は現実の安全保障の観点を踏まえることなく作成された…」

 「現実」認識の違いと言えばそれまでなのだが、条約の早期発効を願う被爆地からすれば到底、見過ごせない発言である。

 国際政治の理想と現実について考えるには、E・H・カーの「危機の二十年」が歴史的な大著とされる。500ページを超える文庫本をかばんに詰め、長崎市に向かった。

 9日の平和祈念式典。被爆者のコーラスで始まり、合間には児童の合唱など、多くの歌声に包まれた式典は長崎らしい特徴と言えるだろう。

 「戦争体験や被爆体験を語り継ぎましょう」「国を超えて人と人との間に信頼関係をつくり続けましょう」「人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝え続けましょう」。田上富久市長の平和宣言も率直な言葉が続き、切々と響く。

 「危機の二十年」とは、第1次と第2次世界大戦の間の20年間を指す。国際連盟という「理想」があっけなく機能不全に陥るという「現実」の下、ファシズムが台頭し、日本をはじめ世界は戦争の道へ。

 では、次の大戦はないと言い切れるだろうか。カーの主張を一言でくくれば、世界平和の鍵は「大国が譲歩する」こと。まさに今の国際情勢は、それとは真逆に進んでいる。

 暑さにうだる長崎の式典も、時折の風は心地よい。「核軍縮をめぐっては各国の立場の隔たりが拡大しています」。広島とほぼ同じ内容だった安倍首相のあいさつを聞きながら、ふと思った。

 首相、「国家間の橋渡し」が被爆国の役割だと自任されているのですよね。ならば、どうか米国、ロシア、中国の首脳の仲を取り持ち、まずは3カ国で新たな中距離核戦力(INF)全廃条約を締結するよう、互いの譲歩を働き掛けていただけませんか―。

     ◇

 「月刊E」は中国新聞デジタルに月1回掲載するコラムです。中国地方を歩き、地域の「いい」ところを再発見しながら、より「いい」時代への道筋を考えていきます。

この記事の写真

  • 広島市の式典後、傘を差して原爆慰霊碑へ献花に向かう参列者たち(6日午前9時13分、撮影・田中慎二)
  • 平和宣言を読み上げる松井市長(6日午前8時17分、撮影・高橋洋史)
  • 式典であいさつする湯崎知事(6日午前8時40分、撮影・高橋洋史)
  • 長崎市の式典を終え、平和祈念像の前に集まる参列者たち(9日午前11時50分、撮影・江種則貴)

上記の写真をクリックすると拡大して表示されます。

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