マツダ100年 車づくりと地域

<3>松田家の退陣 強気のRE生産が経営打撃、コスト意識を球団に継承

第1部 あの時 あの場面2019/11/20 22:12
元さんは執務室に耕平氏の写真を掲げている。若き日の父に見守られながら球団運営のアイデアを練る(撮影・山崎亮)

元さんは執務室に耕平氏の写真を掲げている。若き日の父に見守られながら球団運営のアイデアを練る(撮影・山崎亮)

 マツダスタジアム(広島市南区)にある広島東洋カープの球団事務所。オーナーの松田元さん(68)が執務机から顔を上げ、壁の写真パネルを見つめた。写真の中で、青年が世界地図のオブジェの前で腕を組み、笑みを浮かべている。松田耕平氏(1922〜2002年)。東洋工業(現マツダ)社長を務めた父の姿だ。

 耕平氏はマツダ車販売の広島マツダ社長などを経て1961年、副社長として東洋工業に入った。祖父は草創期を支えた重次郎氏。父の恒次氏はロータリーエンジン(RE)を世に送り出した。ともに70代半ばまで社長を務めた。松田家3代目の耕平氏は世界に販売を広げようとした。インドネシアやイラン、カナダ…。度々海外に出向いた。

 しかし77年12月、50代半ばで社長を退くことになる。当時、東洋工業の新入社員だった元さんは、退任時の父を「身を粉にして働いても成果が出なかった」と振り返る。

 ▽石油危機が転機

 背景には、REへの傾斜がある。初の量産車コスモスポーツを67年に発売。主力のファミリアにも載せた。耕平氏が社長に就いたのは米国に輸出を始めた70年。トヨタ自動車やベンツもREを開発していた。世界の車の大半はRE車になる―。そのパイオニアになろう、と耕平氏は攻めた。

 大きく潮目が変わったのは、73年の第1次石油危機だ。「ガスガズラー(燃料ばかり食う車)」。ガソリン価格が上がった米国でREの弱点が批判された。他社が開発すら諦めていく中で、強気の生産を続けた。在庫が積み上がり、経営は急速に悪化。耕平氏は社長退任が決まった直後の記者会見で「功を焦り過ぎて隙があった」と悔やんだ。
(ここまで 680文字/記事全文 1866文字)

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  • 記者会見で社長交代について説明する松田耕平氏(左)と社長を継いだ山崎芳樹氏(1977年12月)
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