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埋もれた名前<9>検視調書 5万人余の記録不明

2019/12/9 23:23
「西警察署」が作成した検視調書の謄本(広島大原爆放射線医科学研究所所蔵)。原本は見つかっていない(撮影・高橋洋史)

「西警察署」が作成した検視調書の謄本(広島大原爆放射線医科学研究所所蔵)。原本は見つかっていない(撮影・高橋洋史)

 ▽最有力資料、原本どこに

 1945年末までの広島原爆の犠牲者数として、一般的に言われるのは「14万人±1万人」という推計値。一方、広島市が原爆被爆者動態調査でつかんでいる名前の「実数」は8万9025人だ。二つの数字の間の「空白」を埋めるのに役立ちそうな最有力資料が、実は行方不明のままになっている。

 かつての西署(現広島中央署)が作成した、検視調書である。

 被爆直後から、警察はおびただしい数の遺体を検視した。広島県警察部(現広島県警)は、検視調書を基に県内27署が寄せた情報をまとめ、「1945年11月末までに死者7万8150人」とする報告書を作成。うち約7割の5万4320人が西署管内の分で、8327人分が東署(現広島東署)管内の分だった。

 この報告書の「元資料」の存在に光が当たったのは68年。45年当時の数字とずれがある理由は不明だが、8341人分の名前や死亡した場所を記した東署分の検視調書が発見された。広島市内で公開されると、肉親を捜し続ける遺族が望みをつないで押しかけた。

 ■「大捜索」実らず

 西署の分もあるはずだ、と期待の声が上がり、ちょうど同じ年に着手された「広島県警察百年史」の編さん作業の中で「大捜索」が始まった。

 71年に百年史は刊行された。調書に死亡場所や死因、住所・名前を書き入れると火葬し「来る日も来る日も生臭い火〓(かえん)は、夜を徹(てっ)して燃え盛った」と当時の状況を記す。県警察部自体も、広島市内の施設の多くを焼失し、計354人の職員を失っていた。しかし結局、調書は発見できなかった。

 編さん委員だった元広島東署長、木原昭さん(2016年に88歳で死去)は生前、妻恭子さん(87)=東区=によると「あれ(検視調書)があればのお」とこぼしていたという。中国新聞の取材にも「どれほどの死没者の名前が明らかになることか」と語っていた。

 検視調書のありかを突き止めたところで、一部の犠牲者は他の資料によってすでに把握されている可能性はある。それでも貴重な新資料となるのは確実だ。

 やはり見つからないのか。県警本部(中区)を訪ねた。

 文書管理室長を兼務する井本憲吾・総務課企画官(46)が、当時の西署を引き継ぐ広島中央署、県警捜査1課、県警本部の書庫を調査。歴史資料を保管する県警察学校でも資料を捜してくれていた。しかし「発見に至りませんでした」。

 西署は爆心地から約150メートルの直下で壊滅し、被爆後の1年間に3カ所の仮庁舎を転々とした。61年にまた移転し、現在の広島中央署の場所に移ったのは73年。その間に資料が散逸した可能性はある。

 ■西署の謄本展示

 しかし、意外な場所で西署の検視調書を見ることができた。広島大医学部医学資料館(南区)に、色あせた謄本が1枚展示されている。「昭和二十年八月六日午前八時十分空襲ニヨリ生ジタル管内ノ死者ニ対シ検視スルコト左ノ如シ」。住所や名前とともに「戦災ニ係ル火傷死」とある。

 原爆資料館(中区)も遺族から寄贈された西署の検視調書の謄本を数枚所蔵する。「写し」があるということは、原本が少なくとも一時期存在していたことは間違いない。

 「不屈の警察精神の表現」―。木原さんが編さんに携わった「百年史」は当時の検視活動に、こう「敬意」を表す。昨夏、西日本豪雨を経験した井本さんは、西署の検視調書を捜す中で74年前の大先輩たちの苦闘を想像した。「ご遺族のためにも、継続して捜したい」(山本祐司)

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