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【第6部 広島の未来へ】<4>旧藩関係者 郷土遺産、継承の使命

2019/12/13
「上田家は幸運にも原爆などを乗り越え伝統を守ることができた。今後も文化の継承に努めていく」と話す上田宗冏さん

「上田家は幸運にも原爆などを乗り越え伝統を守ることができた。今後も文化の継承に努めていく」と話す上田宗冏さん

 茶道上田宗箇(そうこ)流の16代上田宗冏(そうけい)家元(74)=広島市西区=は、旧広島藩家老で武将茶人の上田宗箇を流祖とする武家茶道の流儀を守る。藩主浅野氏と縁深い家の当代である家元に伝統継承への思いなどを聞いた。(城戸良彰)

 ―同藩の歴史は地元でも決して広く知られてはいません。

 戦後しばらくまで浅野の名は身近だった。最後の藩主長勲(ながこと)公が昭和12(1937)年まで存命で記憶に新しかったのではないか。私の子どもの頃は(元は浅野家別邸だった)縮景園を「浅野の泉邸」と呼んでいた。戦後復興の中で町から浅野の名が消え過ぎたのでは。

 ―原爆が文化の継承に影を落としたのですね。

 復興期に文化を顧みる余裕がないのは仕方ない。戦後、多くの人が広島に流入した事情もあるだろう。

 私は祖父母と父を原爆で亡くし、母の実家の上田家を頼った。4歳からお茶の稽古を始め、1972年に若宗匠を継いだが、その頃は上田流と言っても知る人が少なく、当時勤めていた銀行を辞めて家業に専念するか数年悩んだ。

 ▽生き残る伝統

 ―今、市民の郷土史そのものへの関心は高まっているように見えます。

 肌感覚だが、潮目が変わってきたのは被爆50年(95年)の頃。復興が一段落し、世代も変わって生まれついての広島市民が増え、郷土史に興味が向いてきたのではないか。

 ―上田家上屋敷を和風堂(現西区)内に復元するなど、藩政期の文化の可視化を進めるのはなぜですか。

 かつて行政関係者やマスコミが「ゼロから再建された広島」と言っていた。復興を誇る気持ちは分かるのだが、内心じくじたる思いがあった。今でも原爆で街が断絶してしまったような感覚を持つ市民は多い。しかし原爆を受けても地域の伝統は生き残っている。目に見える形で表現する必要があると感じた。

 ▽人材の投入を

 ―歴史を伝える使命感があるということですか。

 明治の廃藩置県で浅野家は東京に移住させられ、藩の三家老のうち三原、東城両浅野家も東京へ移った。上田家のみが広島にとどまった。石高1万7千石の小大名クラスの家が地元に残ったのは、文化財の保存という点でも大きかった。

 1999年から広島市が数千点の上田家の茶書や家政史料を調査し、2006年に史料集2巻を刊行した。現在、千数百点の美術工芸品についても市が調査を進めている。茶道具を核に旧藩ゆかりの美術品などを伝える家として次代に継承する責務を感じている。

 ―明治期に旧家臣の互助会として設立された「追遠会」が現在も存続し、その会長も務めています。

 現在、会員数は160人弱。藩主浅野家歴代を祭る饒津(にぎつ)神社(現東区)を拠点に同藩の顕彰活動をしている。国持ち大名の藩でこの規模の会が保たれているのはまれと聞く。旧藩関係者にとって戦後の大変な時期に心のよりどころだった。現代においては、文化財や歴史遺産を中心に社会へ向けて歴史を発信していくという使命が会にあると考えている。

 ―次代へ広島の歴史を受け継ぐ上で何が必要だと思いますか。

 自治体が歴史文化に人材を投入するべきだ。また「地域文化」と言う際、市町のような狭い視野にとどまってはいけない。郷土愛と聞くと内向きに狭く考えてしまいがちだ。少なくとも安芸国、備後国など旧国ぐらいの範囲で、どういう文化が根付いていたのか見ないと、広がりのある歴史を伝えることはできないだろう。

 うえだ・そうけい 1945年広島市安佐南区生まれ。慶應義塾大経済学部卒。72年に茶道上田宗箇流の若宗匠、95年から家元となる。今年3月、浅野氏や上田宗箇の広島入り400年を記念し、上田家伝来の茶道具などの特別公開を和風堂内で催した。

    ◇

 連載「浅野氏広島入城400年」は今回で終わります。

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