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【ヒロシマの空白 被爆75年】帰れぬ遺骨 家族はどこに

2020/2/2 19:33

 1945年8月6日、米軍が広島市上空で投下した1発の原爆により数多くの市民が即死し、あるいは傷を負って臨時の救護所となった国民学校や寺で息絶えた。おびただしい数の遺体が、グラウンドや川土手などで火葬された。遺族と「再会」できないまま、今も広島市内や周辺で安置されている遺骨は数多い。各地でまとめて埋葬された身元不明の遺骨が、これまでたびたび発掘されてきた。あの日まで生きていた一人一人の骨のかけらの重みから、原爆被害の悲惨さを見つめたい。

 ▽広島壊滅の混乱物語る 安らかに、祈る市民

 平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔は直径16メートル、高さ3・5メートルの盛り土型で「土まんじゅう」とも呼ばれる。中は地下納骨室になっている。原爆死没者名簿が納められた公園中心部の原爆慰霊碑と比べると、訪れる人は少ない。

 原爆供養塔に納められた遺骨は「約7万体」とされる。そのこと自体が「広島壊滅」の混乱ぶりと悲惨を物語る。

 被爆直後から、広島市内や周辺の部隊に配属されていた兵士らが中心部へ向かった。17歳だった笠岡市の土屋圭示さん(91)もその一人。指令を受け、海上特攻の訓練を受けていた幸ノ浦(現江田島市)から入市した。

 川に入り、水面を埋める遺体をひたすら引き揚げて臨時の火葬場へ運んだ。60〜70人を荼毘(だび)に付した日も。その際「服の名札から、名前や住所を紙に書き取った」。しかし、黒焦げの死体などは身元の手掛かりがなかった。

 市役所で遺族への遺骨引き渡しが行われたものの、身元不明が大多数だった。残った遺骨は1945年末に己斐町(現西区)の善法寺へ移された。また、後に平和記念公園となる中島本町の慈仙寺跡にも遺骨が大量に集められており、46年に発足した市戦災死没者供養会(広島戦災供養会の前身)が市とともに「戦災死没者供養塔」と仮納骨堂、礼拝堂を建てて収容した。

 55年に現在の原爆供養塔を建立。「負傷者1万人が運び込まれた」という似島(現南区)の供養塔など各所で安置されていた遺骨を地下納骨室に集めた。その後も、工事現場で発見されたり、情報を手掛かりに発掘されたりすると原爆供養塔に持ち込まれている。

 広島では、家屋を壊して防火帯を造る「建物疎開」などの作業に駆り出されていた約7200人もの動員学徒が命を奪われた。わが子が市中心部に出て行方不明のまま、という遺族は数多い。子どもまで動員して戦争を続けていた、当時の日本の現実も見えてくる。

 「約7万体」のごく一部ではあるが、名前のある遺骨も地下納骨室で眠っている。市が68年に納骨名簿の公開を開始した当初は、2355体。75年から納骨名簿を全国の自治体などに発送し始めた。原爆で家族や親類13人を失い、原爆供養塔に日々通って清掃を続けた故佐伯敏子さんも、遺族捜しに力を注いだ。それでもなお、814体が遺族に引き取られていない。

 広島戦災供養会の畑口実会長(73)は「返す努力は続け、引き取り手のない遺骨はここで供養していきたい。墓のようにお参りの場でもあっていい」と話す。

 あそこに行けば会える―。供養塔は遺族にとって、帰らぬ肉親が眠っていると信じる場所だ。毎月6日朝、読経する声が響く。呉市の白蓮寺住職、吉川信晴さん(83)は両親の活動を継ぎ約60年間、呉から毎月出向いている。

 広島の都市機能が壊滅し、負傷者数が膨大な数に上っただけに、臨時救護所の設置も広範囲にわたった。原爆供養塔だけでなく、遠くは県北の寺などにも、引き取り手のない遺骨が眠っている。山口市江良では、旧山口陸軍病院に運ばれた軍人の原爆犠牲者の遺骨が73年に発掘された。13体以上とみられ、その後に山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑が建てた「原爆死没者之碑」に納められた。

 ▽「7万体」根拠は不確か

 原爆供養塔に納められている遺骨は「7万体」とされ、広島市もその数字を採用している。とはいえ根拠は定かでない。

 1955年の完成当時、広島戦災供養会の記録によると、似島供養塔(約2千体)や善法寺(約500体)、旧供養塔などにあった「5万体」を納骨したという。中国新聞も「推定」と念を押しながら「総数約五万柱」と伝えている。「7万体」となるのは、本紙記事では76年からだ。

 同年、広島、長崎両市は国連に提出した要請書の中で、45年末までの広島原爆の犠牲者数として「14万人(誤差±1万人)」の推計値を提示した。一方、広島県警察部が45年11月末にまとめた報告は、遺体の検視を経た犠牲者が「7万8150人」としており、67年の国連事務総長報告でも言及された。単にこれら二つの数字を引き算すれば、5万〜7万余りにはなる。

 「7万体」が言われ始めた70年代は、似島(南区)などで大量に発掘されたり寺に長年安置されたりしていた遺骨が、原爆供養塔の「5万体」に加えられていった時期でもある。

 いずれにしても、数字の裏付けは難しい。原爆犠牲者数は推計の域を出ず、あまりに多くの遺骨が身元不明、という被害実態の「空白」こそが核兵器の非人道性を問い掛ける。(山本祐司)


供養塔の遺骨1体、返還へ調査 広島市、10年度以降2例遺族へ

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この記事の写真

  • 1月6日朝、原爆供養塔前で読経する吉川さん(右端)や市民たち
  • 名前が分かっていながら引き取り手のない原爆供養塔の遺骨の名簿の張り出し作業。全国にも発送されている(2019年7月)

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