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【ヒロシマの空白 被爆75年】帰れぬ遺骨<5>遺族それぞれ 供養塔も「家族の墓」

2020/2/8 22:46
原爆供養塔に安置されていた脩さんの骨つぼを手に持つ大木さん。「高橋修」と書かれている

原爆供養塔に安置されていた脩さんの骨つぼを手に持つ大木さん。「高橋修」と書かれている

 ■記憶を受け継ぐ場

 「原爆供養塔の納骨名簿にある『野地田笹一』さんを知りませんか」。玉野市に住む野地田正則さん(86)に記者が聞くと、予想外の言葉が返ってきた。「おやじじゃろう。名簿を見たこともあるんよ」

 広島県内の電話帳に「野地田」姓はない。調査範囲を広げ、全国で唯一見つかったのが、岡山県内の正則さん宅だった。父の名は佐々市。正則さんは「漢字の間違いじゃろう」と語る。

 75年前、正則さんは広島市広瀬北町(現中区)に家族で住んでいた。「おやじは小鳥をようけえ飼っとった。釣りも一緒に行ったのう」。思い出は尽きない。

 8月6日の「あの日」、すべてが一瞬で変わった。

 正則さんは広瀬国民学校(現広瀬小)6年で、県北の学童疎開先にいた。広島に残っていた父佐々市さん=当時(56)、母マサコさん=同(44)、妹鈴子さん=同(8)=らが被爆死。教師に連れられて市郊外の救護所を捜したが、遺骨すら見つからなかった。爆心地から約1・1キロの自宅跡は、風呂釜だけが焼け残っていた。

 姉の嫁ぎ先だった玉野に身を寄せた。被爆後、病気がちになった兄正義さんは54年に24歳で死去。「悲しんでいられんかった。生きることに精いっぱい」。造船所で働き、妻とともに娘2人を育てた。

 納骨名簿に父の名前があると知ったのは、広島市を訪れた10年ほど前だ。原爆資料館(中区)で偶然、納骨名簿のポスターを見て目がくぎ付けになった。近くの原爆供養塔を訪れ、静かに手を合わせた。

 広島市に名乗り出て遺骨を玉野に移そうかと考えたが、供養塔を「古里広島の墓」だと思っていたい、との気持ちもある。「野地田笹一」さんの遺骨とともに、母と妹も供養塔で眠っているかもしれない。だから「これまで通り、広島でまつられるんが一番ええんじゃろうなあ…」。複雑な胸の内を明かす。

 正則さんは胃がんで闘病中の身。原爆で家族、古里と引き裂かれ、「言いとうなかった」体験を孫4人に話し始めた。供養塔に遺骨がある限り、各地から平和記念公園を訪れる人に手を合わせてもらえる。野地田家が原爆の記憶を受け継ぐ場にもなると思っている。

 ▽名前の読み同じ

 遺族の数だけ、遺骨への思いがある。

 高橋脩(おさむ)さんの遺骨は3年前、長男の久さん(91)=西区=とその娘の大木久美子さん(61)ら遺族に返還された。

 納骨名簿には「高橋修」と記されていた。久さんから一度「父と名前の読みが同じだから」と市に問い合わせたものの、返還にこぎ着けなかった経緯がある。高齢の久さんに代わり、大木さんが市と再度交渉して願いがかなった。

 2016年に公開されたアニメ映画「この世界の片隅に」を見て以来、「かつて爆心直下の旧中島本町に住んだ祖父への思いが募った」ことが大木さんの背中を押した。「働き盛りの男性のしっかりとした骨」を、供養塔から家族の墓に移した。「父が逝く日が来ても、これで祖父とずっと一緒にいてもらえます」

 ▽「7万体」の重み

 大木さんは、供養塔も「家族の墓」と言われて育った。「約7万体」という名もなき遺骨の重みを、あらためて感じている。その一人一人に暮らしがあり、名前があったのだ、と。被爆死した久さんの弟の遺骨は、見つからないままだ。

 同じ平和記念公園内でも供養塔は、原爆慰霊碑ほど知られていない。大木さんは「どんな場所なのか、知る人が増えてほしい」と供養塔をテーマに児童文学を書き始めた。多くの人が足を運ぶことを願う。(水川恭輔、山下美波)

<1>「梶山ハル」さん 祈念館の遺影、糸口に

<2>「琢夫」と「宅雄」 墓の骨は誰、募る疑問

<3>天神町66番地 資料館周辺、生活の場

<4>名字の手掛かり 証言集に「麓」さん表記

<5>遺族それぞれ 供養塔も「家族の墓」

<6>寺の納骨堂 名前記載、眠ったまま

<7>子守り地蔵 小さな「かけら」供養

<8>似島の土の下 1人で発掘「まだある」

<9>政府の立場 収集「地方がやること」

<10>県北の集落で 死者の無念思い続け

<11>母の日記 捜し続けた子、どこに

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  • 「野地田笹一」さんの名前がある納骨名簿を手に「おやじじゃろう」と思いをはせる正則さん

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