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【ヒロシマの空白 被爆75年】街並み再現 にぎわう八丁堀、戦前から

2020/2/16 21:22
1940年前後とみられる八丁堀。「千日前」とも呼ばれた。電車通りを挟んで右手が福屋新館。左手が旧館。福屋新館の並びの奥のビルは中国新聞社で、現在は広島三越(広島市公文書館所蔵)

1940年前後とみられる八丁堀。「千日前」とも呼ばれた。電車通りを挟んで右手が福屋新館。左手が旧館。福屋新館の並びの奥のビルは中国新聞社で、現在は広島三越(広島市公文書館所蔵)

 八丁堀(広島市中区)は被爆前から広島を代表する繁華街だった。1912(大正元)年、広島駅と市中心部を結ぶ路面電車が開通すると、路線沿いの八丁堀に金融機関や行楽施設が集積。買い物客でにぎわった。だが、爆心地から1キロ圏だった地区は75年前の8月6日、壊滅する。戦後の百貨店や商店街の再建は、広島の復興の象徴となった。焼失を免れた貴重な写真と当時の住民の証言を通して、原爆に奪われた街を見る。

 ■映画館・商店・神社、ここが遊び場 すべて奪った原爆

 弟子たちに囲まれ、バルコニーで満面の笑みを浮かべる帽子とちょうネクタイの男性。正面の壁とガラス戸には、店名の「たけさん」や「図案・肖像」「和洋劇画」「諸かんばん」の飾り文字が見える。

 胡町(現中区堀川町)で生まれ育った武永舜子(きよこ)さん(89)が手元に置いてきた写真だ。「これが父。私が生まれた昭和5(1930)年ごろだと思う。家の外観を写したのはほかにないんよ」

 父三太郎さんは20代だった大正期、胡子神社の向かい側に立つ自宅で看板店を開いた。「太陽館」「東洋座」「歌舞伎座」など八丁堀に映画館や劇場が相次ぎできた時期だ。店頭に大きな看板が並ぶ「たけさん」は近所でも目立っていた。

 「家の前は『尼子』のしょうゆ屋さん。たるが並ぶ蔵でかくれんぼをした。暗いから迷うんよね」「その奥の方が太陽館。弟子たちが大八車で看板を運ぶのに付いて、しゅっと中に入って映画を見た」

 胡町に隣接する商店街「金座街」も含めた八丁堀一帯には、約80軒の商店が軒を連ね、29年には広島初の百貨店、福屋も開店。華やかだった。

 しかし、市民の娯楽と結びついていた看板の仕事は、戦況の悪化とともに減少。三太郎さんは古美術商に業態を転換した。周りでは、空襲時の延焼を防ぐため家屋を壊して防火帯を造る「建物疎開」により、立ち退きになる家が増えた。

 45年8月6日、八丁堀一帯は原爆の爆風や熱線をもろに受け、福屋や銀行など鉄筋のビルを残して焼け野原と化す。

 武永さんの母シンさんは自宅で被爆死し、16歳だった姉堯子(たかこ)さんは近くの泉邸(現縮景園)で亡くなった。2人の遺骨は見つかっていない。12歳の妹瑛子(てるこ)さんは、市中心部で建物疎開作業に出ていて大やけどを負った。体にうじがわき、終戦の8日後に息を引き取った。「何の罪もない子があんなひどい目に遭った。かわいそうで…」

 広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)3年だった武永さん自身は、動員先の広島財務局にいた。爆心地から約800メートル。がれきの下敷きになりながら必死で逃げ、三太郎さんの古里の大林(安佐北区)に生き残った家族で身を寄せた。父子ともに脱毛や吐血など被爆の急性症状に苦しんだ。

 それでも三太郎さんは「絶対胡町に帰る」と約半年後から毎日、自宅まで約20キロを自転車で通って焼け跡にバラックを建てた。生き残った住民と復興に尽くした。武永さんは、父が残した場所に現在も暮らす。

 幼なじみの牧野ミヤ子さん(85)=廿日市市=の実家は、金座街の呉服店「ベニヤモスリン」だった。両親を原爆で失い、祖母に育てられながら小学校を転々とした。今も毎週のように古里を訪れている。

 その金座街から遊び場だった胡子神社まで一緒に歩いた2人。「境内で『陣地取り』をして友だちと遊んだでしょう」。思い出話が止めどなく出てくる。「でも、古里も家族も、街も一度になくなってしまったんよね」

 きょうも買い物客でにぎわう八丁堀の街並み。原爆の爪痕を見つけることは難しいが、武永さんたちの「あの日」までの記憶は確かに刻まれている。(桑島美帆)

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街並み再現 本通りで生きていた被爆前

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街並み再現 奪われた日常、地図とともに 中国新聞が写真紹介サイト開設

街並み再現 にぎわう八丁堀、戦前から

街並み再現 八丁堀、壊滅前の活気 中国新聞写真サイト、新たに110枚加わる

町並み再現 旧中島地区と周辺<上>「旧中島本町」

街並み再現 旧中島地区と周辺<下>「旧材木町など」

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街並み再現 国泰寺町 夢抱いた学びや

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街並み再現 その他の写真

街並み再現 日常のカケラ、埋めていく

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この記事の写真

  • 被爆後の1945年秋に撮影された八丁堀周辺。木造家屋は焼失し、左に焼け焦げた路面電車が見える(川本俊雄さん撮影、川本祥雄さん提供)
  • ビルが並ぶ現在の八丁堀交差点付近。被爆建物の福屋八丁堀本店が戦前の面影を残す
  • 「新天地」だった場所。現在の「アリスガーデン」
  • 「たけさん」の2階に並んで立つ武永さんの父三太郎さん(左から6人目)と弟子たち。1930年ごろ(武永舜子さん提供)
  • 「胡子神社が遊び場じゃった」と子どもの頃を懐かしむ武永さん(右)と牧野さん。戦前の神社は現在より西側にあった(撮影・高橋洋史)
  • 戦争中の1944年、燃料に使う統制物資の薪を校舎に運ぶ幟町国民学校の児童たち(幟町小提供)
  • 劇場やカフェ、食堂が立ち並ぶ「新天地」。左の建物が「帝国座(被爆時は「帝国劇場」)」。1935年秋ごろ(豊田正一さん撮影、豊田健二さん提供)
  • 皇紀2600年の祝賀行事として1940年11月に開かれた胡子大祭。商店はセールを実施した。右手前の灯籠が胡子神社入り口(牧野ミヤ子さん提供)
  • 現在の福屋八丁堀本店の西側から見た金座街。1935年11月ごろ。胡子大祭の装飾がにぎやかだ(豊田正一さん撮影、豊田健二さん提供)
  • 金座街の「川野夜具店」の物干し場で姉と遊ぶ現在84歳の川野哲生さん(右)。1938年撮影(川野哲生さん提供)

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