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保守王国 <3> むかし急進、いま体制派 武力革命、逆転もたらす

2020/2/14
関門橋そばの砲台跡地にある大砲のレプリカ。激しい攘夷運動の舞台となった(下関市)

関門橋そばの砲台跡地にある大砲のレプリカ。激しい攘夷運動の舞台となった(下関市)

 ▽後世に続く政治風土に

 海外からの大型クルーズ船が寄港し、唐戸市場や水族館「海響館」に観光客が押し寄せる下関の港。だが、約160年前は砲声がとどろく戦場だった。

 1863年5月、長州藩はペリー来航以来の危機感から「無警告」での攘夷(じょうい)に踏み切った。海辺にいくつもの砲台を造り、関門海峡を通る外国船を砲撃。欧米の艦隊の反撃に遭い、散々な被害を受けた。世にいう馬関戦争。関門橋そばの砲台跡では今も大砲のレプリカが海峡をにらむ。

 翻って令和の県内。地元の保守政治家の多くは「尊敬する人物」に奇兵隊を率いた高杉晋作ら長州藩士を挙げる。だが、今でこそ改革の先駆者とされる志士たちだが、当時は国力を顧みず外国人排斥を訴える過激な存在だった。保守を名乗る首長や議員らが範とするのはいささか奇異に感じる。

 なぜ志士らは支持されるのか。広島大の三宅紹宣名誉教授(明治維新史)は「攘夷」と「開国」という本来相反する考えを絶妙なバランス感覚で捉えた吉田松陰の影響を挙げる。

 ▽畏敬の念集める

 三宅名誉教授は「松陰は開国による攘夷を目指し、海外のことも非常によく勉強していた」と語る。「古典の暗記ばかりの藩校教育には批判的だった。主宰した松下村塾では工学教育を取り入れ、旧来の教育からの脱却を求めた。それが後の日本の産業革命に貢献している」と解説する。

 実際、松下村塾の門下生だった伊藤博文ら5人は攘夷決行の動乱の陰で敵国のはずの英国へ密航して留学。帰国後、工学や鉄道、造幣といった分野で日本の近代化に貢献した。

 県内で維新史は、こうした松陰と門下生らのチャレンジ精神や若さあふれる行動力として畏敬の念を集める。行政の分野でも「維新」は改革の同義語で使われ、村岡嗣政知事は県政課題への取り組みを「三つの維新」と表現する。

 一方、こうした現象には「神格化された松陰像」の影響との指摘がある。萩博物館の一坂太郎特別学芸員は「かつて彼らは乱民と呼ばれ、松陰は罪人として処刑された。死後に門下生が師の復権を図り、戦中は愛国教育、戦後は民主教育などのシンボルとして政治的に都合良く祭り上げられてきた」と述べる。

 ▽関ケ原の雪辱?

 過激な勢力だった長州は禁門の変(1864年)で「朝敵」となり、幕府から2度も攻め込まれた。その後、滅亡の淵から維新の勝者となるのだが、逆転の原動力は関ケ原までさかのぼると地元ではまことしやかに語られてきた。長州人が長年の苦難の果てにあだを討つサクセスストーリーだ。

 筋書きはこうだ。萩城での元旦の祝いの席。家臣が藩主に尋ねる。「殿、徳川討伐の機はいかに」。歴代藩主は毎年「時期尚早」と答えたという―。

 天下分け目の関ケ原で図らずも西軍の総大将に担がれた毛利家は敗戦後、多くの領土を取り上げられ本拠も日本海側の萩に追いやられた。その徳川への恨みを260年余り「正月の秘密儀式」として内に秘め、倒幕を果たしたという逸話だ。真偽の程について毛利博物館の田中誠二館長は「正式な資料は残っておらず、根拠のない作り話」と一笑に付する。

 ただ、人々が好む逸話は長州が一時は「負け組」で権力の中枢から遠ざけられていた事実を伝えている。賊軍と呼ばれた長州は明治維新の武力革命を成し遂げ、後の世に続く体制派としての保守的な政治風土を築いていく。(和多正憲)

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