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【ヒロシマの空白 被爆75年】街並み再現 本川地区 児童や職人で活気

2020/4/13 21:17
本川国民学校の校庭とみられる遺体の火葬場。1945年8月8日に広島県警察部写真班員の川本俊雄さんが撮影(川本祥雄さん提供)

本川国民学校の校庭とみられる遺体の火葬場。1945年8月8日に広島県警察部写真班員の川本俊雄さんが撮影(川本祥雄さん提供)

 鍛冶屋町、左官町、油屋町―。戦前の町名が示すとおり、相生橋(広島市中区)西詰めの本川地区には、問屋や商店、銀行とともに町工場が並んでいた。1945年8月6日に米軍は、丁字形をしたこの橋を目標に原爆を投下。大半の住民が即死し、爆心地から最も近い学校だった本川国民学校(現本川小)は壊滅した。奇跡的に残され、元住民や遺族が大切に保管してきた写真が、かつての暮らしを今に伝える。

 ▽しゃれた校舎に憧れの師 原爆で一変、火葬場に

 本川国民学校の校庭に立つ児童が、「祝」の人文字をつくり日の丸の旗を高く掲げている。1937年に地元出身者が大蔵大臣に就任したことから、お祝いしようと開かれた行事の一こまだ。学びやの活気とともに、市民が国策に動員された時代の雰囲気が伝わってくる。

 アーチ型の窓が特徴的な校舎も見える。28年に鍛冶屋町(現本川町)に建設され、市内の公立小では第1号の鉄筋建物。「窓がおしゃれだった。1年の担任だった遠藤キヨコ先生は、オルガンがとても上手で、憧れましたよ」

 西(旧姓徳田)敦子さん(83)=西区=は43年に入学した。自宅は学校正門の斜め前。父が運送店を営んでいた。「隣は酒店で、向かいが商人宿。よく子ども同士で行き来して、ご飯を一緒に食べよったよ。いい街でした」

 しかし、本土空襲が激しくなった45年4月、千人余りいた児童のうち約700人が集団疎開や縁故疎開で郊外へ移る。西さんも、父の古里の水内村(現佐伯区)に疎開した。6月ごろ、自宅は防火帯用の空き地を作る建物疎開のため、取り壊されることに。両親は相生橋西詰めの近くに引っ越した。

 あの日、爆心地から約350メートルの至近距離の校舎は外郭を残して全焼。遺体が次々に運びこまれて火葬場と化し、一帯は凄惨(せいさん)を極めた。広島原爆戦災誌によると、当時確認できただけでも、疎開せずにいた児童218人が死亡。「大好きな遠藤先生」も犠牲になった。

 西さん自身、母を失った。12月になって校舎に足を運ぶと「地下の階がむき出しになり、友達とかくれんぼをしたらしゃれこうべが見えた」。その校舎の一部は、今も本川小平和資料館として使われている。

 8割以上の地区住民が死亡した。原爆孤児になった人も多い。左官町(現本川町)で両親が「大下鉄工所」を経営していた大下徳務さん(86)=中区=は光道国民学校の6年生だった。現在の北広島町志路原へ学童疎開している間に、両親や親族を奪われた。

 「海軍の仕事を請け負い、毎日夜10時まで動いていた」鉄工所は、被爆から約1週間後に訪れると跡形もなく「焼けた機械の周りに遺骨が5体分くらいあっただけ」。49年に叔父たちが鉄工所を再建し、後に大下さんが継いだ。「原爆のことを思い出すと商売ができん。封印し、誰にも話さずにいた」と明かす。

 問屋街だった西九軒町(現十日市町)の茶問屋「綿岡大雅園」では、綿岡重美さん=当時(45)=と38歳だった妻光子さん、3歳と6歳の娘が被爆死した。建物疎開に出ていた12歳の次女も亡くなり、16歳だった長女の智津子さん(2011年に82歳で死去)だけが生き残った。智津子さんの長女岩田(旧姓綿岡)美穂さん(62)が、現在も被爆前と同じ場所で営業している。

 岩田さんは約15年前から本川小平和資料館のボランティアガイドを務め、修学旅行生たちに母の被爆体験を語っている。店には、生き生きと働く祖父母の写真や、被爆前日に撮られた家族写真を展示する。「ここにどんな店があり、原爆で何があったかを知ってほしい。ヒロシマは決して昔話ではなく、日常の中で起こったことなんです」(桑島美帆、新山京子)

被爆前の本通り写真など200枚 広島県内7施設「消えた街」保存

街並み再現 本通りで生きていた被爆前

街並み再現・本通り<1>理髪店主のアルバム

街並み再現・本通り<2>キリンビヤホール

街並み再現・本通り<3>袋町国民学校

街並み再現・本通り<4>商店街

街並み再現・本通り<5>探し続けて

街並み再現 奪われた日常、地図とともに 中国新聞が写真紹介サイト開設

街並み再現 にぎわう八丁堀、戦前から

街並み再現 八丁堀、壊滅前の活気 中国新聞写真サイト、新たに110枚加わる

町並み再現 旧中島地区と周辺<上>「旧中島本町」

街並み再現 旧中島地区と周辺<下>「旧材木町など」

街並み再現 本川地区 児童や職人で活気

街並み再現 基町と周辺 軍都の象徴

街並み再現 国泰寺町 夢抱いた学びや

街並み再現 広島駅「軍都」の玄関口

被爆前の写真、ウェブに1000枚 読者提供続々

街並み再現 その他の写真

街並み再現 日常のカケラ、埋めていく

街並み再現 暮らし語る100枚 福山の遺族が写真保管

街並み再現 爆心地の島病院、継ぐ思い

この記事の写真

  • 地元出身の賀屋興宣氏が1937年に大蔵大臣に就任したのを受け、校庭で「祝」の人文字をつくり日の丸を掲げる本川尋常高等小学校の児童(本川小提供)
  • 左官町電停前で戦死者の遺骨の到着を待つ人たち。左が相生橋方面。角の辻山時計店は辻山春夫さん(当時34歳)をはじめ家族4人が原爆の犠牲になった。1937年撮影(柏史江さん提供)
  • 木造家屋が密集し「ヤスリ」「旅館林」などの看板が並ぶ。現在の広島記念病院の西側付近とみられる。1937年撮影(柏史江さん提供)
  • 「綿岡大雅園」の倉庫。後列右端に座る男性が重美さん。後列左から4人目の女性が光子さん。長女を残し3人の娘とともに原爆に命を奪われた。1937年10月撮影(岩田美穂さん提供)
  • 左官町の「大下鉄工所」。海軍の仕事を請け負い、工場は戦時中もフル稼働だった。1941年撮影(大下徳務さん提供)
  • 堺町1丁目にあった「山音合名会社」。山崎恭弘さん(87)の祖父音助さんが創業し「関西タクシー」やガソリンスタンドを経営。1928年ごろ、自宅兼店舗前に立つ山崎さんの父太佳司さん(右から3人目)と従業員たち(山崎さん提供)
  • 戦前の本川橋。中島本町と問屋街の堺町を結んだ。レンガの建物は1913年に広島商業銀行本店として建てられ、20年に芸備銀行(現広島銀行)塚本町支店になった。20〜40年代の撮影(広島市公文書館所蔵)
  • 現在の本川橋
  • 本川国民学校前にあった自宅跡付近で戦前の思い出を語る西さん。当時の校舎は川岸にあり、現在の本川小の敷地に鉄工所や旅館が並んでいた(撮影・山崎亮)

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