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【ヒロシマの空白 被爆75年】被害の全て、償われたか 死没者への救済、国は放置 生存者援護も限定的

2020/5/17 20:18
広島県商工経済会(現広島商工会議所)の屋上から見た広島県産業奨励館と爆心地付近(1945年11月米軍撮影、広島原爆資料館提供)

広島県商工経済会(現広島商工会議所)の屋上から見た広島県産業奨励館と爆心地付近(1945年11月米軍撮影、広島原爆資料館提供)

 被爆75年の夏が近づく今なお、原爆犠牲者の実際の人数は分からず、おびただしい数の「帰れぬ遺骨」が被爆地や周辺の供養塔、地中に眠る。なぜなのか。街ごと壊滅させる無差別殺傷兵器による被害だったことに加え、戦後を通じた日本政府の姿勢が影を落としているのは明らかだろう。犠牲者と生存者、双方の被害者に対し、責任を持って「償う」ことをしてこなかったからだ、と被爆者団体は批判してきた。被爆者運動の歩みと、ちょうど40年前に出された旧厚生相の私的諮問機関の意見書や議事録を出発点に、国の不作為と被害の「過小評価」が生んだ「空白」を追う。

 「原爆の最大の被害者は原爆死没者です」「遺骨さえも家族の元に戻ることができません」

 被爆者団体の全国組織である日本被団協は2011年6月、「原爆被害者は国に償いを求めます」と題した政府への要望書をまとめた。被爆者援護法を改正し、原爆犠牲者への「償い」「補償」となる施策を進めるよう迫る内容だ。

 作成に携わった田中熙巳(てるみ)代表委員(88)=埼玉県新座市=は長崎で被爆し、祖父や伯母たち親族5人を亡くした。「死没者は、私たち以上に見捨てられてきた。無残に命が奪われるのを見た者として、『あの人たち』を絶対に放っておけない」

 日本被団協は、原爆関係の法律がまだなかった1956年に結成。生存者の救済だけでなく、被爆直後の即死者や戦後早い時期の犠牲者についても国が早急に調査し、遺族への弔慰金支給などを進めるよう強く訴えてきた。

 戦争を遂行した日本と、原爆を投下し国際法に違反した米国の両方が、被害に責任を負っている。サンフランシスコ講和条約で対米請求権を放棄した日本にとって、被爆者を放置せずに救済すべき責任はなおさら重い。戦争で被った被害への償いとして、生存者、死没者の両方を救済すべきだ―。

 田中さんは「お金じゃない。償いは、原爆、戦争被害を決して繰り返させないという国の誓いになるはずだ」。被爆者運動の根幹をなす訴えといえる。

 一方、国は被爆から12年後の57年になって、被爆者対策として初の法律である原爆医療法を施行。原爆投下時にいた場所などの要件を満たす生存者に、被爆者健康手帳を交付しはじめた。その後、被爆者特別措置法との「原爆2法」で諸手当などを拡充していった。ただし、それは「健康の保持と増進、並びに福祉」。病気や生活に困る生存者の社会保障だ。特別手当などの受給条件を「放射線被害」に限っていた。

 では、死没者と生存者の多岐にわたる被害に、国が補償する責任はないのか。「国に完全な賠償責任はない」としたのが80年12月に厚生相の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)が答申した意見書だった。

 有識者7人の委員からなり、被爆者行政の基本理念を話し合うため設置された。韓国人被爆者の孫振斗(ソンジンドウ)さんが提起した訴訟の最高裁判決が契機だった。原爆被害は「戦争という国の行為でもたらされた」のであり、原爆医療法には「国家補償的配慮が根底にある」。政府方針の「社会保障」よりも明らかに踏み込んだ司法判断だった。

 基本懇は結局、戦争被害は「国民がひとしく受忍しなければならない」ものだとして従来の施策をおおむね追認し、死没者への弔慰金などの案も退けた。被爆者たちは「戦争被害を我慢することなどできない」などと激しく反発した。

 基本懇答申から14年後の94年、原爆2法に代わる被爆者援護法が成立した。本来、被爆者の長年の悲願のはずだったが、基本懇の答申が色濃く反映された。原爆投下直後、あるいは戦後早い時期に亡くなった犠牲者一人一人に対する「補償」は、実現しないままだ。

 原爆は、放射線と熱線、爆風が複合的に病気やけがを引き起こす。しかも、放射線被曝(ひばく)の影響は未解明の部分がある。心の傷や戦後の生活の苦難、子や孫の健康への不安なども生涯背負う。遺族や孤児は、被爆せずとも塗炭の苦しみを味わった。多くの在外被爆者が、援護から置き去りのまま亡くなった。そもそも、声なき死者の苦しみはいかばかりか。

 命、暮らし、心と体。すべてにわたるのが原爆被害―。身をもってそう証言し続ける生存者も、高齢化が進む。(水川恭輔)

 ▽被爆者の訴えと「ずれ」、基本懇議事録の端々に 厚相「国家補償が一般の戦災犠牲者にも拡大しないか恐れていた」

 国の被爆者行政の方針を議論した「基本懇」は、1979〜80年に計14回の会合を重ねた。茅誠司・東京大名誉教授(物理学)を座長とする、別名「7人委員会」。国が開示した議事録から、被爆者らの訴えと大きくずれた結論に至った経過が読み取れる。

 「特殊兵器の原爆によって生命や健康に被害を残したことを国家補償の対象にすると、一般の戦災犠牲者にも広がりはしないかと大変恐れていた。そういうことで『特別な社会保障』という定義にこだわってきた」。初会合で橋本龍太郎厚相(当時)が語っている。

 戦争被害への補償、という位置付けになれば、空襲など他の戦争被害の補償問題に波及しかねない―。被爆者対策を、「特殊」な放射線の健康被害に対する「特別の社会保障」とした国の意図がよく分かる。

 序盤は、死没者への補償に一定の理解を示す声があった。元フランス大使の西村熊雄氏のほか、議論の中心を担った元最高裁判事の田中二郎氏も、原爆犠牲者に限った弔慰金を支給しても「十分理屈は立つ」と発言。ただ、原爆の熱線に焼かれて即死した人と、沖縄戦や無差別空襲の猛火に焼かれて死んだ人との間に格差をつけることを説明できるのか、議論になった。

 後半時期になると、厚生省の担当者の介入が増える。「国家補償と書くことを少し緩めてほしい」「大蔵省(現財務省)は、特別な社会保障にしてくれと言うに違いない。戦後処理に弾みがつく危惧がある」。他の戦争被害への補償問題に発展することを、財政負担の面から強く懸念していた。

 意見書は結局、被爆者対策を「広い意味における国家補償」と表現しつつ、数々の「歯止め」をかけた。

 放射線の健康障害についてのみ「他の戦争被害との著しい不均衡」にならない範囲内で相応の補償を行うべきだとした。だが、弔慰金などは「不均衡」を理由に否定。在外被爆者対策も視野の外だった。日本被団協などは「原爆被害だけでなく、ほかの戦災にも援護を広げることで解決すべきものだ」と抗議した。

 田村和之・広島大名誉教授(行政法)は「座長が『放射能の影響は15、16年でほとんど消えている』と語るなど、誤った知識で原爆被害を小さく評価する発言も目につく。意見書は今も国の被爆者行政の太い指針であり続けている。問題点をいま一度考えるべきだ」と話している。

国の責任を問う<1>給付金の「線引き」 「遺族も被爆」が条件

国の責任を問う<2>まどうてくれ 全ての死者に償いを

国の責任を問う<3>追悼平和祈念館 死没者銘記まだ一部

国の責任を問う<4>「分断」にあらがう 空襲・原爆、共に被害者

国の責任を問う<5>被爆者健康手帳 91歳でやっと手に

国の責任を問う<6>原爆症認定 「放射線起因」に限定

国の責任を問う<7>内部被曝 広範囲に「黒い雨」

国の責任を問う<8>被爆2世 「遺伝」未解明、援護の外

国の責任を問う<9>禁止と廃絶 「生き残った者の務め」

原爆犠牲「米に賠償責任」 79年厚相諮問機関で元外務省局長


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  • 原爆投下後の長崎市内で、松山町の高台から浦上天主堂を望む(林重男氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

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