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【ヒロシマの空白 被爆75年】街並み再現 広島駅「軍都」の玄関口

2020/5/31 19:35
東練兵場で軍馬にまたがり訓練する軍人たち(広島市公文書館所蔵)

東練兵場で軍馬にまたがり訓練する軍人たち(広島市公文書館所蔵)

 広島市の玄関口、JR広島駅(広島市南区)は75年前も多くの人が行き交っていた。その北側に陸軍の演習場「東練兵場」が広がっており、太平洋戦争末期になると「本土決戦」に備えた「第二総軍司令部」が近くに設置されるなど、一帯は「軍都広島」の一翼を担うエリアでもあった。被爆と復興を経て今、再開発事業で街の姿は大きく変わり続けている。写真を通して、かつての街を思い起こしたい。

 ▽北側に練兵場、人馬「頼もしく」 原爆で負傷者多数避難

 軍人が馬にまたがり、障害物をさっそうと飛び越えていく。「頼もしく見えました」。山本定男さん(88)=東区=が尾長国民学校(現尾長小)の教室から眺めた光景だ。現在の広島駅北口から延びる一帯。東練兵場の広大な敷地だった。

 日清戦争が始まる4年前の1890年、綿畑の跡地に東練兵場はできた。西側の一角に騎兵第五連隊の兵舎が隣接しており、ほふく前進などの訓練が連日行われていたという。「軍国少年だった」山本さんにとって憧れだった。

 しかし太平洋戦争が厳しさを増すと、状況は急速に変化する。軍人たちが戦地に送られ、東練兵場は人けもまばらになったという。

 1945年8月6日。広島二中(現観音高、西区)の2年生で14歳だった山本さんは、同級生約250人と東練兵場にいた。軍用地も食糧不足でサツマイモ畑になり、その日は草取り作業の動員日。点呼の直後にごう音、熱風に襲われた。顔の左半分を焼かれ、同級生数人と裏手の山にある尾長天満宮へ必死に逃れた。

 高台から見ると広島駅は、もうもうと煙を上げていた。「駅近くの愛宕踏切辺りから民家に次々と火が燃え移るのを、ぼうぜんと見るしかありませんでした」

 その頃、大勢の負傷者が東練兵場に逃げ込んでいた。近くの第二総軍司令部で被爆したカナダ在住のサーロー節子さん(88)もその一人。「私のけがは軽かったので、布を水に浸しては水を求める人の口元に運びました。瀕死(ひんし)の人がチュー、と弱々しく吸った時の感触が手に残っています」

 爆心地から1・9キロの広島駅は内部を全焼。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。戦後、周囲の焼け跡に闇市とバラックがひしめいた。

 市中心部と駅を結ぶ猿猴橋の近くで理容店を営む秋信隆さん(71)は、復興に向けて懸命に生きる家族や地域住民に囲まれて育った。曽祖父の仙太郎さんが自宅兼店舗で被爆。東練兵場に避難し息絶えた。曽祖母と祖母、中国大陸から復員した父が店を再建した。

 数年前まで「昭和」が色濃かった地域だが、高層ビルや商業施設が並ぶエリアに変貌した。JR広島駅の駅ビル新築計画が進む。かつての街の面影も、復興期の雑踏のにおいも、感じ取ることは難しい。だからこそ秋信さんは「原爆でたくさんの人が命を落とし、生き残った人たちが懸命に立ち上がった歴史は変わらない」との思いを強める。

 山本さんは、尾長天満宮から見た惨状を、修学旅行生らに証言している。あの日、広島二中の1年生は爆心地から約500メートルに動員されて全滅した。下級生らへの鎮魂と、「二度と繰り返させない」との思いを込めて語り続ける。(新山京子)

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街並み再現 広島駅「軍都」の玄関口

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この記事の写真

  • 「陸軍九一式戦闘機」が並ぶ東練兵場。1935年撮影(渡辺襄さん撮影、同館所蔵)
  • 広島駅は1922年に新築。客待ちのタクシーや人力車が並んだ。左の建物は広島駅前郵便局(広島市公文書館所蔵)
  • 広島駅のホームで談笑する女性たち。36年撮影(渡辺襄さん撮影、同館所蔵)
  • 駅前電停そばで土産物を販売していた「友谷商店」。店があった松原町は原爆で全焼した(上田護さん提供)
  • 戦前の猿猴橋東詰めからの風景。橋の往来はにぎやかだった(広島市公文書館所蔵)
  • 焼けた広島駅構内。救援・救護などで町村部から駆け付けた在郷軍人や義勇隊員らとみられる。1945年10〜11月ごろに米軍が撮影(米国立公文書館所蔵)
  • 45年10月、広島駅近くの愛宕踏切の陸橋南詰めから東を望む(米戦略爆撃調査団撮影、同館所蔵)
  • 愛宕踏切の南詰めから東を見る。右手を進むとマツダスタジアム
  • 尾長天満宮から東練兵場があった一帯を望む山本さん。高層ビルが立ち並ぶ奥中央が広島駅方面(撮影・藤井康正)

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