コラム・連載・特集

第2部 日記は語る<2> 米国から来た先生 熱心な指導、楽しく上達

2020/6/18
クーパーさんとピアノの生徒たち。上から2人目が明子さん=1934年(HOPEプロジェクト提供)

クーパーさんとピアノの生徒たち。上から2人目が明子さん=1934年(HOPEプロジェクト提供)

 米国から一家で帰国した1933(昭和8)年、広島女学院付属小学校に入学した河本明子さんは、その年の9月に校内のピアノ教室に通い始める。校庭の一角に音楽のレッスン室があり、希望者は個人授業を受けることができた。「ネコヲ ヌイツケテ モラヒマシタ」。母シヅ子さんにレッスン用の手提げ袋を作ってもらった喜びが日記から伝わる。

 ■礼拝で演奏披露

 半年後の3月には、全校生徒が集う礼拝でピアノを弾いた。「私ト岡田サント ヅュエツトヲ 出テヒキマシタ」。一生懸命な演奏が、上級生たちを和ませる光景が目に浮かぶ。軍国主義の台頭でミッションスクールへの風当たりが強まった時代だが、日記から読み取れるのは音楽を楽しむ子どもらしい日々だ。

 2年生からは、米国人の女性宣教師ロイス・クーパーさんがピアノの先生になった。校内のオーケストラを指揮した白系ロシア人セルゲイ・パルチコフさんに出会う前の外国人音楽教師だった。クーパーさんは米国の大学で音楽を教えていたベテランで、当時45歳。レッスンのレベルが上がり、明子さんは学校が休みの日も家で1〜2時間の練習に励むようになる。

 明子さんも出演した「紀元節生徒音楽会」は校内の恒例行事で、当時は珍しかったピアノやオーケストラの生演奏を目当てに、大勢の来場者が詰めかけたという。34年発行の「広島女学院新聞」から様子がうかがえる。「活気あるピアノ二重奏から始まり、二つ三つの無邪気な小学生の斉唱があつて、元気よく愉快だつた」「五年生のピアノ四重奏ワルツ・ブリリアンテは、力強くまた軟らかく四人の手は鍵盤の上を走る」

 明子さんと同時期にクーパーさんのレッスン室に出入りしていた山本幸代さん(100)=奈良県生駒市=は「室内には2台のピアノがあり、生徒とよく合奏していた」と回想する。広島女学院専門学校(現広島女学院大)時代にクーパーさんに師事し、卒業後は助手を務めた。「純粋で愛情に満ちた方だった。『人にみせびらかすピアノを弾いてはいけません』と教わった」

 クーパーさんの熱心な指導の下、明子さんはピアノの腕前を上げていった。3年の日記には、付属幼稚園で「園児たちのオーケストラ」のピアノ伴奏を務めたことや、付属小の視察に訪れた約50人の学校長を前にピアノを披露したことを、誇らしげにつづっている。

 ■家族も度々訪問

 レッスン室の前で、クーパーさんと明子さんたち生徒が仲むつまじく並ぶ写真は、父の源吉さんが撮ったと推測される。音楽行事には母のシヅ子さんや弟の信彦さんも度々訪れている。35年10月31日の日記はハロウィーンの音楽会を生き生きと描く。「けふはハロインナイトだから くーぱー先生がお母さん方をよばれました。私はそ馬さんとぴやのをひきました。みんな手をたたかれました。おくわしを一つたべました」

 このころ河本家は大河地区(現広島市南区)から三滝町(現西区)に転居した。36年9月、明子さんは自宅近くの三篠尋常高等小学校(現三篠小)に転校。戦争へと突き進む世相が、明子さんの日記にも影を落とし始める。(西村文)

 <クリック>ロイス・クーパー 1889〜1977年。米ミシシッピ州で牧師の娘として生まれる。コロンビア大などで音楽を学んだ。28年に来日し、広島女学校(現広島女学院中高)の教師に。40年、軍部の圧力が強まり帰国。戦後再び来日し、55年に定年退職するまで広島女学院で教えた。医師の故日野原重明さんが京都帝国大(現京都大)の学生時代、広島で病気療養中にピアノを教わった。

【第2部日記は語る】
<1>タンバリンの少女 露教師に西洋音楽習う
<2>米国から来た先生 熱心な指導、楽しく上達
<3>戦争の影 合唱に励み勤労奉仕も
<4>変わりゆく生活 勉強や音楽、ままならず
<5>原爆 動員中、帰路に力尽きる

  • 前の記事へ
  • 次の記事へ

 あなたにおすすめの記事

平和を奏でる 明子さんのピアノの最新記事
一覧