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第2部 日記は語る<4> 変わりゆく生活 勉強や音楽、ままならず

2020/6/22
広島女学院専門学校時代の明子さん(後列左から2人目)。1944年6月、図書委員が集まって撮影したと推測される(HOPEプロジェクト提供)

広島女学院専門学校時代の明子さん(後列左から2人目)。1944年6月、図書委員が集まって撮影したと推測される(HOPEプロジェクト提供)

 1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、国内の生活物資や食糧の不足は深刻化し、市民生活は急激に変わっていった。米国時代に父源吉さんが保険業で成功を収め、生活に余裕があった河本家も例外ではなかった。

 ■専門学校に入学

 43年4月、間もなく17歳になる明子さんは広島女学院専門学校(現広島女学院大)家庭科に入学した。第1志望だった広島女子専門学校(女専、現県立広島大)は不合格。1年たった日記にも「女専発表の夢を見、すべつて泣いて泣いて覚めて見たら涙が一ぱい出てゐた」と書くほど悔しかった。より一層勉学に励んだ。

 「頭痛がしたが英語があるので我慢して登校した」「前期は私が一番で後期は岡本さんださうで学年平均は私が一番との事。少々おかしい 二年になったら岡本さんに負けぬ様しつかりせねばならぬ」

 44年6月、図書委員が集って撮影したと推測される写真。18歳の明子さんは髪を三つ編みにし、きりっと口元を結んでいる。セーラー服の下はスカートではなくもんぺ。42年ごろから「もんぺ姿」は女学生の装いの定番となっていた。

 帰宅後は家の手伝いが忙しく、存分に勉強できないのが悩みだった。「すぐ机につきたいがどうしても母が夕食の支度につかふのでしたい勉強が出来ない」「こんなに食べ事に朝から晩まで時間を費すのが女の仕事かと思へば何をしに生れて来たのか判らない」

 思春期らしい親への反発や悩みを書き連ねる一方、両親と2人の弟への思いやりがにじむ記述も。「家で節米し得る者は私のみである。弟達には控へ目にせよといふのは無理だし父母はもう胃袋の大きさが定ってゐるのだから」。米の代用品として配給された大豆粉を、何とかおいしく料理しようと奮闘する姿もページから垣間見える。

 ■警報に「本物だ」

 明子さんが6歳から習い続けてきたピアノ。しかし、専門学校時代の日記にはその3文字は見当たらない。43年に米英音楽が実質的に禁止され、市民の音楽活動への統制も強まっていた。気軽にピアノを楽しむ時勢ではなかった。

 「三滝橋まで帰った時サイレンが鳴り出した。警戒警報だ。時は五時半。演習ではないのだ。本物だ」。44年6月16日未明、初めてB29による日本本土空襲が九州北部で行われた。広島でも警戒態勢が取られ、15日から16日にかけて河本一家は緊張の一夜を過ごした。

 さらに7月8日の日記には「昨夜再び空襲警報は鳴りわたつた。でも広島の上空には敵機は見舞はなかったが西北部九州に来たとの事だ。小癪(こしゃく)な!!吾々は再奮起せねばならぬ」とある。

 理由は不明だが、明子さんが6歳から書いてきた日記は5日後の「昭和十九年七月十三日」で終わっている。この年の初め、明子さんは真新しいページにこう記していた。「(今年で18歳になるので)はや人生の三〜四分の一は来たのだ」。頑張り屋で家族思いの少女が見つめていた未来を、8月6日が消し去る。(西村文)

【第2部日記は語る】
<1>タンバリンの少女 露教師に西洋音楽習う
<2>米国から来た先生 熱心な指導、楽しく上達
<3>戦争の影 合唱に励み勤労奉仕も
<4>変わりゆく生活 勉強や音楽、ままならず
<5>原爆 動員中、帰路に力尽きる

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  • 昭和19(1944)年4月の明子さんの日記。7月13日で終わり、翌年の日記は存在しない(原爆資料館蔵、山本正隆さん寄贈)

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