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第2部 日記は語る<5> 原爆 動員中、帰路に力尽きる

2020/6/23
1938年、両親、弟と並ぶ明子さん(右端)。当時は三篠尋常高等小5年生で、畑さんにピアノを習っていた。現存するものでは最後に撮られた家族写真(HOPEプロジェクト提供)

1938年、両親、弟と並ぶ明子さん(右端)。当時は三篠尋常高等小5年生で、畑さんにピアノを習っていた。現存するものでは最後に撮られた家族写真(HOPEプロジェクト提供)

 1944(昭和19)年、通年の学徒動員が始まり、学校の授業はほとんどなくなった。45年になると本土空襲は激しさを増し、広島市では防火帯を造る建物疎開作業に多数の生徒が動員された。

 ■爆心地から800メートル

 8月6日、河本明子さんが通う広島女学院専門学校(現広島女学院大)では、登校日だった1年生を除く学生の大半が東洋工業(現マツダ、広島県府中町)に動員された。明子さんの45年の日記は存在しないが、遺族の証言から、八丁堀(中区)の財務局か同じ敷地内にあった税務署に出勤した女学生25人の中にいたとみられる。

 「立派な木造2階建ての庁舎だった」。財務局に動員されていた武永舜子(きよこ)さん(89)=中区=はそう記憶する。広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)の3年生だった。この頃までに職員の多くは疎開先の日銀広島支店に移っていたため、閑散とした事務所で黙々と半紙を切り、書類をとじるためのこよりを作っていたという。

 午前8時、舜子さんが席に着いて間もなく。ピカッと光り、吹き飛ばされた。爆心地から約800メートル。一瞬で倒壊した庁舎の下敷きになった。同級生の涙声と、バリバリと木が燃える音が聞こえた。わずかな隙間から無我夢中ではい出した。

 庁舎前の通りに出ると、やけどを負った人々がぞろぞろと歩いていた。財務局の避難先に決めてあった泉邸(現縮景園)へ向かっていると、黒い雨がザーッと降り、次の瞬間、猛烈な勢いで竜巻が襲ってきた―。

 この地獄絵図を、明子さんはどのようにして生き延び、約3キロ離れた三滝町(現西区)の自宅まで帰ったのか。明子さんのピアノを所有するHOPEプロジェクト代表の二口とみゑさんは遺族や友人を訪ね、あの日の「断片」を集めてきた。

 「朝、体調が悪くて行き渋った明子さんを、母のシヅ子さんが『リーダー役なんだから』と弁当を持たせて送り出した」「原爆投下時は庁舎前で友達と立ち話をしていて、停まっていた車のちょうど下に吹き飛ばされた」「逃げたが三篠橋が渡れず、長寿園あたりを泳いで渡った」…。

 明子さんは自宅近くの三滝橋を渡ったところで力尽きてうずくまり、駆け付けた父の源吉さんが背負って連れ帰った。目立った外傷はなかったが、翌日の夕方に死去。最期の言葉は「お母さん、赤いトマトが食べたい」だったという。

 8月6日、軍需工場や建物疎開に動員されていた学徒は約2万6800人。うち、約7200人が亡くなったと推定される。

 ■よみがえる音色

 明子さんがのこした21冊の日記には、3人の「ピアノの先生」の名が記されていた。ロイス・クーパーさん、沓木良之さん、もう1人が「畑先生」。この人物については詳細が不明だったが、今回、広島女学院に畑とみゑさんという音楽教師がいたことが分かった。

 明子さんが広島女学院付属小から転校した三篠尋常高等小時代に、ピアノを教えた。キリスト教徒だった畑さんは原爆の後、焼け落ちて外壁だけとなった広島流川教会で聖歌隊を指導。復興する街の片隅で、95歳まで教会のオルガニストを務めた。

 弾く人のいなくなった「明子さんのピアノ」は戦後、まな娘への思いとともに両親によってふたが閉じられた。二口さんたちとの出会いを経てよみがえった音色が、19年の生涯の喜びと悲しみを伝える。(西村文)

=第2部おわり

 畑とみゑ(はた・とみえ) 1882〜1988年。愛媛県出身。1910年、東京音楽学校(現東京芸術大)卒。2学年上に作曲家の山田耕筰がいた。28〜44年、広島女学院音楽教師。47年12月、広島流川教会の故谷本清牧師が米国から贈られた楽譜でヘンデル「メサイア」を奏でる音楽礼拝を開催した際、主要メンバーとして参加した。

【第2部日記は語る】
<1>タンバリンの少女 露教師に西洋音楽習う
<2>米国から来た先生 熱心な指導、楽しく上達
<3>戦争の影 合唱に励み勤労奉仕も
<4>変わりゆく生活 勉強や音楽、ままならず
<5>原爆 動員中、帰路に力尽きる

この記事の写真

  • 畑とみゑさん=1947年(長西貞美さん提供)

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