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【ヒロシマの空白 被爆75年】街並み再現 爆心地の島病院、継ぐ思い

2020/7/19
薫さん(前列左から2番目)の膝の上で日の丸を持つ一秀さん。1938年前後の撮影(被爆前の写真はいずれも島一秀さん提供)

薫さん(前列左から2番目)の膝の上で日の丸を持つ一秀さん。1938年前後の撮影(被爆前の写真はいずれも島一秀さん提供)

 爆心地の代名詞のように知られる「島病院」は1933年、故島薫さんが広島市細工町(現中区大手町)に開いた。45年8月6日朝、原爆によって壊滅し、医師や看護師、患者約80人の命が奪われた。被爆前に撮影され、病院関係者宅で焼失を免れた写真を、現在も同じ地で医院を営む島家が大切にしている。最近見つかった薫さんが自ら書いた死没者名簿なども手掛かりに、かつてのたたずまいをたどる。

 ▽「地域のため」戦時中も奮闘

 左腕に腕章を着け、軍刀を握り締めた衛生兵たち。戦地に赴く前の記念だろうか。院長の故島薫さんの膝の上で、日の丸の旗を手にした幼子も写る。「中庭で撮った写真です。4歳ごろの私でしょう。隣は母と二つ下の妹です」。長男の一秀さん(85)が遠い記憶をたぐり寄せた。

 戦前の繁華街、旧中島地区から元安川を隔てて東側に広がる細工町周辺は、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)や広島郵便局など、洋風の建物が並んでいた一帯。中でも約1300平方メートルの敷地に立つ島病院は、米国の病院を模した近代的なデザインが目を引いた。

 猿を5、6匹飼っており、中庭の小屋を近所の人がよく見に来たという。「患者さんを楽しませるためでしょうね。餌をあげるたびによう逃げよったです」と一秀さん。

 「壁の厚みは1メートル以上あり、空襲に耐え得る」と薫さんが自慢していたれんが造り2階建ての病院は、原爆により玄関付近を残して廃虚と化した。医師も看護師も患者も即死。白骨が散乱していた。

 島家に残る死没者名簿の患者一欄には、郡部を含む広島県内各地や山口県の在住者、朝鮮半島出身者の名も並ぶ。「広島外科学会の父」と称された薫さんの技術が戦前から広く知られていたことを物語る。医療費が払えない人の治療を拒まず、御礼に野菜が届けられることもあったという。

 知人に手術を頼まれ、甲山町(現世羅町)に出ていた薫さんは、「広島全滅」の一報を受けて細工町へと急いだ。しかし熱に阻まれ、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら袋町国民学校(現袋町小)の臨時救護所で負傷者の治療にまい進した。83年出版の回想録には、職員と患者たちを捜し歩いたことや、遺族が訪ねて来ると、誰のものかも分からない骨の代わりに一握りの土を持って帰るよう伝えたと記す。

 医師で警防団員でもあった自分があの日病院にいなかったことを「胸に五寸くぎを打たれた気持ち」と悔い、人前で原爆について語ることはほとんどなかった。「8月になったら休みが欲しいと懇願するお手伝いさんに『忙しいけえ、盆まで働いてくれ』と頼んだ、と涙をこらえて言うちゃったことがある」。一秀さんの妻直子さん(76)にとって忘れられない、義父の一面だ。

 一秀さんは県北に疎開しており無事だった。終戦から3年後、薫さんは焼け跡に医院を再建する。77年に薫さんが79歳で他界した後は一秀さんが外科医院を継ぎ、現在は孫の秀行さん(49)が内科医院を営む。玄関横に「爆心地」の説明板が立ち、国内外から見学者が絶えない。「時代や周りの景色が変わっても、戦前同様、この地で地域医療に奉仕していく」。秀行さんは力を込める。(桑島美帆)

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街並み再現 本通りで生きていた被爆前

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街並み再現 爆心地の島病院、継ぐ思い

ウェブサイト<ヒロシマの空白>

この記事の写真

  • 「じーやん」と親しまれた用務員の樋口太三郎さんと赤ん坊の一秀さん。樋口さんは原爆で亡くなった
  • 中庭でくつろぐ看護師たち。住み込みで働いていた
  • 円い窓が特徴的な島病院の外観。1933年の開業時とみられる
  • 正面玄関の円柱に「第一地区救護所」の看板が見える。薫さん(2列目左から3人目)は警防副団長だった
  • 洋風の特別室
  • 猿に餌をあげる白衣姿の男性。猿小屋は中庭の南側にあった
  • 【被爆直後】1945年10月の爆心地付近。円形窓の周辺が島病院の正面玄関(米戦略爆撃調査団撮影、米国立公文書館提供)
  • 【被爆直後】焼け残った猿小屋を調べる旧文部省の学術調査団。1945年10月撮影(田子恒男さん撮影、原爆資料館提供)
  • 薫さんの遺影の前で「時代を超えて、地域医療への奉仕は変わらない」と語る秀行さん(左)と一秀さん(撮影・山崎亮)

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