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【ヒロシマの空白 被爆75年】県外部隊の被爆死、つながらぬ点と点 追悼祈念館死没者名/広島市動態調査

2020/10/7
仁木利喜雄さん(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館提供)

仁木利喜雄さん(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館提供)

 ▽専門家「情報共有を」

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)に遺族の申請で登録された死没者名と、名前を積み上げて犠牲者数を調べる市の原爆被爆者動態調査との情報共有が進んでいない。同館の情報は、市がつかみにくかった広島県外から市内に来ていて被爆死した軍関係者などが含まれ、市の調査の空白を埋める手だてとなりうる。専門家は「市は祈念館の情報を生かすべきだ」と指摘している。

 広島で23歳で被爆死した日野治さんは、おいの佳雄さん(69)=東京都大田区=の申請で2011年に登録された。日野さんは東京出身で、陸軍航空士官学校などを経て、福岡の第十二飛行師団・第一航空通信司令部に配属されていた。

 佳雄さんによると、1945年8月6日朝、広島市内で開かれる軍の会議に出席するため、航空機で福岡から広島入りした。戦時中に陸軍が埋め立て地に設けていた吉島飛行場(現中区)から、市中心部に向かっている途中で被爆して大やけどを負い、その日のうちに亡くなった。

 戦後生まれの佳雄さんは、亡き祖母が日野さんの遺影を仏壇に飾り、線香をあげてお経を読む姿を見て育った。「叔父のことは写真でしか知らないのに、身近な存在に感じてきた」。祖母たち家族の思いを胸に申請した。

 旧満州(中国東北部)の部隊に所属した仁木利喜雄さんは昨年、長男の慎一さん(75)=倉敷市=が申請した。慎一さんによると、原爆投下の直前に「本土防衛」を命じられて8月5日に下関港に着き、報告のため広島の部隊に移動。翌日被爆した。

 岡山県内の親類の家で療養したが、19日後、旧満州に残した妻と、生後3カ月だった慎一さんを気に掛けながら33歳で息を引き取った。慎一さんは、唯一残る厚手のコート姿の仁木さんの写真を登録した。

 市が示す45年末までの犠牲者数の推計は「14万人±1万人」だが、動態調査の実数は昨年3月末時点で8万9025人。日野さんと仁木さんの2人の遺族は市の原爆死没者名簿にも申請していたものの、軍関係の資料は広島を拠点としていた中国軍管区の部隊に関するものが主で、県外の部隊の犠牲者は「漏れ」となりやすいことが分かっている。

 2002年に開館した祈念館には、県外から来ていて犠牲となった人を含む2万3789人(3月末時点)の死没者が登録されている。市はこれまで「大半が動態調査で把握済みとみられる」として情報を取り込んでこなかったが、今後検討したいとしている。

 被爆史を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授は「祈念館の情報を市の調査に生かすべきだ。市から国へ働きかけることが必要だ」と強調する。同館をはじめ、各施設が保有する関連資料の情報共有を進めることが重要と指摘している。(水川恭輔)

特集「ヒロシマの空白 被爆75年」

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  • 日野治さん(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館提供)

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