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第4部 戦後、そして未来へ<2> 二つの被爆楽器 国と時超え8・6で協演

2020/10/13
ロシアの民族衣装「ルバシカ」を着たパルチコフさん(後列左端)。広島市にあった映画館「日進館」で楽団の仲間 と撮影したと推測される(アンソニー・ドレイゴさん提供)

ロシアの民族衣装「ルバシカ」を着たパルチコフさん(後列左端)。広島市にあった映画館「日進館」で楽団の仲間 と撮影したと推測される(アンソニー・ドレイゴさん提供)

 明子さんの広島女学院付属小学校(広島市中区)時代の日記に「バイオリンの先生」として登場する、白系ロシア人セルゲイ・パルチコフさん(1893〜1969年)。今夏、米国在住の親族が一家の伝記を出版し、戦前・戦中の広島での暮らしぶりや被爆時の状況が明らかになった。明子さんとのつながりをたどると、広島の大衆文化や音楽教育に幅広く貢献した姿が浮かび上がる。

 ■バイオリン評判

 広島女学院歴史資料館(東区)によると、パルチコフさんはロシア中部カザン近郊で地主階級に生まれ、幼少期からバイオリンを習った。長じて帝政ロシア軍の将校に。革命を逃れ、1922(大正11)年に日本に亡命した。ウラジオストクから船で朝鮮半島を経由し、広島へたどりついた。

 米国の遺族が保管していた広島時代の写真約300枚の中に、ロシアの民族衣装を着た1枚がある。「1923(年)」などのメモ書きも見える。この写真の手掛かりは、原爆以前の広島の街と暮らしを回想した薄田太郎著「がんす横丁」に見つかった。

 「日進館のオーケストラは(中略)、ルバシカ姿の白系露人三名が参加して、益々好評を博した」。日進館は洋画専門の映画館として21年、新天地に開館。当時は無声映画時代で、専属管弦楽団の「洗練された演奏ぶりが呼物となり」、人気を呼んだとある。右端に米国映画のポスターも見えるこの写真は、日進館でパルチコフさんたち楽団仲間を写したものとみられる。

 パルチコフさんのバイオリンの評判は、音楽教育に力を入れていた広島女学校(現広島女学院中高)のゲーンス校長の耳に届く。26年、パルチコフさんは同女学校の教師に就任し、バイオリンとオーケストラ、合唱の指導を始める。

 「カタカタカタ! 激しく先生の棒が木の譜面台の縁を叩く。やり直し。永久に全部は歌えないのではないかと思われるほど」。25〜35年に在学した萩原悠子さんの手記は、クリスマス会に向けて「ハレルヤコーラス」を厳しく指導するパルチコフさんの姿を伝える。

 ■東京から米国へ

 33年12月発行の広島女学院新聞によると、年に1回開かれた「音楽教師演奏会」にはパルチコフさんのバイオリン演奏を目当てに大勢の人々が詰めかけたという。同新聞には「ヴァイオリン個人教授 一ヶ月20エン」と書かれたパルチコフさんの写真入り広告も掲載されていた。

 明子さんは小学4年だった36年、パルチコフさんが指導する上級生のオーケストラにタンバリンで参加した。「苦難の連続だった人生において、明子さんたちに音楽を教えたことは、最大の喜びだっただろう」。パルチコフ一家の伝記「SURVIVING HIROSHIMA」を書いた孫のアンソニー・ドレイゴさん(70)=カリフォルニア州=は、異郷で音楽教育に情熱を傾けた祖父に思いをはせる。

 パルチコフさんと妻、子どもは爆心地から約2・5キロ離れた現在の東区牛田旭の自宅で被爆。戦後、一家は東京を経て、米国に渡った。「SURVIVING―」には被爆直後、パルチコフさんが壊れた家から愛用のバイオリンを捜し出したことが書かれている。86年、長女のカレリアさん(2014年に93歳で死去)がこの被爆バイオリンを女学院に寄贈。2012年に修復され、音色を取り戻した。

 昨年8月6日、広島港(南区)の客船内で、広島市出身のピアニスト萩原麻未さんが奏でる「明子さんのピアノ」と、夫でバイオリン奏者の成田達輝さんが弾く「パルチコフさんのバイオリン」が協演。美しく優しい音色で、人々に深い印象を刻んだ。「音楽と美は人間の最悪の行動を乗り越えられる。二つの被爆楽器は、その素晴らしい『証言』になるはずだ」。ドレイゴさんは平和のハーモニーに期待する。(西村文)

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  • 1936年6月発行の「広島女学院新聞」に掲載されたパルチコフさんの広告(広島女学院歴史資料館蔵)
  • 明子さんの被爆ピアノを奏でる萩原さんと、パルチコフさんの被爆バイオリンを弾く成田さん(2019年8月6日)
  • パルチコフ一家の伝記を出版した孫のドレイゴさん

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