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第4部 戦後、そして未来へ<4> 日米の懸け橋 演奏や出版、広がる共感

2020/10/15
明子さんのピアノで奏でた曲のCDを手にするカイトさん=2018年(撮影・ジャネール・ゲルファンドさん)

明子さんのピアノで奏でた曲のCDを手にするカイトさん=2018年(撮影・ジャネール・ゲルファンドさん)

 明子さんと愛用のピアノはともに1926年に米国で生まれ、ともに海を渡って広島に来た。原爆を生き延びたピアノは、「エリントン シンシナティ USA」と内部に刻印がある。

 2018年夏、米オハイオ州の自宅で古き良き時代の音色を耳にして、ペギー・カイトさん(19年に91歳で死去)は驚いた。米国の名ピアニスト、ピーター・ゼルキンさん(20年2月に72歳で死去)が広島で「明子さんのピアノ」を弾いた録音のCD。「古いボールドウィンのピアノが、日本で大切にされていることをとてもうれしく思う」と語ったという。

 ボールドウィン社は1862年、米オハイオ州シンシナティ市で音楽教師だったボールドウィンがピアノ販売店を開いたのが始まりだ。同社の簿記係だったカイトさんの祖父が経営を引き継ぎ、ピアノの製造を始めた。同社製のピアノは1900年のパリ万博で最高位の評価を受け、一躍米国を代表するピアノメーカーへと発展を遂げた。

 同じく米国のスタインウェイ社が音楽家向けの高級ピアノを主力としたのに対し、ボールドウィン社は「一家に一台」を掲げて普及に力を入れた。明子さんのピアノも20年代の「エリントン」という家庭用シリーズの製品だった。

 社業が最盛期にあった41年、真珠湾攻撃を機に日米が開戦。ボールドウィン社は米政府の命で、軍用飛行機の部品製造工場に転換する。戦後、ピアノの生産を再開したが、カイトさんは回顧録で「たやすいことではなかった」と、同社の最高経営責任者だった父の苦労に言及している。

 ■愛情と期待こめ

 明子さんのピアノは26年に父の源吉さんが購入した。同年5月25日にロサンゼルスで生まれた明子さん。源吉さんは日記に「『聡明怜悧なれよ』と祈る。依て名を『明子』と命ずる様決す」と記した。待望の第1子への愛情と期待の大きさがこもる。

 福山市出身の源吉さんは22歳で渡米。サンフランシスコ周辺の農場や工場で働きながら、大学の通信制で農業を学んだ。当時の源吉さんの日記は全て英語で書かれており、猛勉強で英語を身に付けた努力の跡がにじむ。

 河本父娘の日記を調査しているHOPEプロジェクトのメンバーで元英語教諭、廣谷明人さんは「源吉さんの考えは保守的だったが、リベラルな面もあった。知性、教養のある女性を理想とし、まな娘の教育に熱心だった」と人物像を読み解く。6歳からピアノを習わせ、帰国後は家庭教師をつけて英語を学ばせた。父の背を追って勉強熱心だった明子さん。原爆資料館(中区)が所蔵する明子さんの遺品には多数の英語教材が含まれていた。

 ■ネットで生配信

 今年8月、広島市で広島交響楽団が明子さんのピアノを使って初演した「Akiko's Piano」はインターネットを通じて世界に生配信された。「このコンサートを共有できて感謝している。明子の物語に心動かされた」。ロサンゼルス・フィルハーモニックのバイオリン奏者は広響にメールを寄せた。

 明子さんの生まれ故郷のロサンゼルスを拠点とする同フィルは「Akiko―」の演奏を検討中だ。シンシナティ市では、廣谷さんの英訳した明子さんの日記を基に絵本を出版する計画も進む。

 明子さんのピアノについて生前のカイトさんにインタビューした、シンシナティ市の音楽評論家ジャネール・ゲルファンドさんは「米国から日本へ7千マイルもの旅をして広島の原爆から生き残ったピアノは、私たちが文化と人類愛によってつながっていることを教えてくれる」と語る。(西村文)

この記事の写真

  • 米国時代の明子さん(右)と父の源吉さん(中)、弟の信彦さん=1931年(HOPEプロジェクト提供)
  • 「エリントン シンシナティ USA」と刻まれた明子さんのピアノの内部(HOPEプロジェクト提供)

上記の写真をクリックすると拡大して表示されます。

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