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【ヒロシマの空白 被爆75年】原爆犠牲者、理研に遺骨 名前4人確認、広島市が近く供養

2020/11/9

 旧陸軍の依頼で原爆開発研究を試み、米軍の原爆投下直後に調査のため広島入りした当時の理化学研究所(理研)の仁科芳雄博士(1890〜1951年、岡山県里庄町出身)の関連資料から、原爆犠牲者の遺骨が見つかった。理研が加わった調査団が、広島で得たものとみられる。理研から遺骨引き渡しの申し出を受けた広島市は、近く原爆供養塔(中区)に納め、名字と名前が確認できた2人の遺族を探す。

 見つかった遺骨は骨片7点と骨粉21点。封筒に入れられ、別にメモ書きもあった。仁科氏の関連資料を保管していた仁科記念室があった東京都内の旧理研の建物が、老朽化のため解体されるのに伴い、資料整理していて見つかった。昨年7月、市に連絡があった。

 市によると、何人分の遺骨かは不明だが、メモ書きからは4人の名前を確認。うち2人は「キの内藤四郎」さんと「道原菊馬」さん。道原さんは、備考欄に「菊男」との記載もあった。残る2人は「伊勢岡」さんと「里井」さんで、名字しか分からないという。

 仁科氏の研究室は、戦前の日本の原子物理学研究の中心を担い、陸軍の依頼で熱拡散法によるウラン濃縮を試みた。1945年8月6日に米軍が投下した爆弾が原爆であるかどうかを確かめるため、大本営が派遣した調査団に加わり、8日に広島入り。調査団は10日に原爆との結論を出している。

 その後、理研の別の研究者たちが陸軍省派遣の広島災害調査班に参加。14日に広島に入り、多くの負傷者が運ばれた似島(南区)で遺体の骨の放射能を測定するなどした。研究者たちは、29日から活動した陸軍省の再調査班にも加わった。

 4人の名字を、当時の調査記録を収める「広島県史」(72年発行)などと照合したところ、陸軍省の再調査班による「原子爆弾症ニヨル死者ノ骨灰」の放射能測定の一覧表に3人と同じ名字があった。このことから市は、遺骨はこれらの調査の際に得たものと推定している。

 平和記念公園(中区)にある原爆供養塔に眠る遺骨は「約7万体」とされ、市は名前が分かりながら引き取られていない814人の遺骨の名簿ポスターを全国に送っている。市は今後、名字と名前が分かる2人についても、遺族の申し出を募る。名字だけが分かる2人は現時点では「氏名不詳」として扱うという。

 今月12日に、現在は埼玉県和光市に本部を置く理研の職員が市役所を訪れ、遺骨を引き渡す。市原爆被害対策部調査課は「原爆供養塔で供養し、遺族にお返しできるよう調査を進める」としている。同課Tel082(504)2191。(水川恭輔)

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