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【ヒロシマの空白 被爆75年】名前1字違い、兄の遺骨では 「菊馬」と「菊間」原爆犠牲者

2020/11/14
遺骨が入っていた袋。「道原菊馬」と記されている

遺骨が入っていた袋。「道原菊馬」と記されている

 ▽廿日市の岩田さん、広島市に調査依頼へ

 理化学研究所(理研、本部・埼玉県和光市)から12日に広島市に引き渡された原爆犠牲者の遺骨で、名前が分かる「道原菊馬」さんと漢字が1字違いの男性の遺族が、本人かどうか市に調査を依頼する考えであることが14日、分かった。吉和村(現廿日市市)出身で18歳で被爆死した道原菊間(みちはら・きくま)さん。死亡日や収容先の病院などの状況が、理研が加わった調査記録と重なる面が多く、市は「有力情報」として調査を進めたい考えだ。

 広島市への調査依頼を検討しているのは、道原菊間さんの妹で廿日市市に住む岩田キヨ子さん(83)。「ただただ、驚きました。兄であるのなら一日も早く抱きしめたい。亡き両親も喜ぶと思う」と話す。

 中国新聞が「道原」という名字の被爆者の証言や体験記などを調べ、吉和村の出身者に「みちはら・きくま」さんという原爆犠牲者がいたとの情報を得た。遺族の一人の岩田さんに連絡を取り、「道原菊馬」さんの遺骨について伝えた。

 1945年8月6日、道原菊間さんは応召して爆心地から約900メートルの広島城東側に拠点を置く中国軍管区歩兵第一補充隊(中国第104部隊)に所属していた。被爆後、広島第一陸軍病院宇品分院に収容され、8月31日に亡くなった。

 「栗拾いに、雪遊び。よくかわいがってくれた、やさしい兄でした」。当時8歳で吉和村にいた岩田さんは、亡き父から被爆で傷を負った兄の体にうじ虫がわいていたと聞いた。

 一方、原爆投下後に理研の研究者も加わった陸軍省の調査班の活動をまとめた「陸軍省広島戦災再調査班報告」には、8月29日からの活動で、菊間さんが収容されていた「宇品分院」で患者を調べたとの記述がある。遺骨の放射能測定の一覧表にある「道原」さんの遺骨を測定した日付は、菊間さんの死亡日の翌日の9月1日となっている。

 放射能測定は「死亡セル兵」の遺骨を調べたとも記され、陸軍兵だった菊間さんと一致する。一覧表の項目にある「道原」さんの「受傷場所」の欄は「不明」だが、測定した15人のうち4人が菊間さんと同じ「104部隊」と記されている。

 岩田さんは、父から兄の遺骨は手にでき、墓に納めたと聞いている。東京都内の旧理研の建物にあった「道原菊馬」さんの遺骨がもし兄の遺骨の一部を持ち帰ったものなら、75年の間、遠く離れた場所に眠っていた寂しさを思い、古里吉和の墓に一緒に入れてあげたいと願っている。

 名前が1字違うためまだ確信は持てないとしながらも、兄の墓参りをした岩田さんは「やはり兄が呼んでいる気がして…」と涙ぐんだ。

 市調査課の河野一二課長は、道原菊間さんが測定日の前日に亡くなっていることなども踏まえ「有力な情報だ。遺骨の名前は戦後の混乱の中で記されただけに、今までも1字違っていた例はある」と説明。相談を受け次第、市の資料や遺族への聞き取りをもとに本人かどうか確認する。(水川恭輔)

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  • 「兄の遺骨ならば一日も早く手に取りたい」。廿日市市にある道原菊間さんの墓前で手を合わせる妹の岩田さん
  • 道原菊間さん

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