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【ヒロシマの空白】被爆の線引き<中>失われた機会 入市被爆、詳細調査なく

2021/1/3 22:58
「入市被爆の健康影響はあったと確信している」と調査当時を振り返る玉垣さん

「入市被爆の健康影響はあったと確信している」と調査当時を振り返る玉垣さん

 ▽ABCCは影響を否定

 原爆投下国の米国が1947年、放射線の人体影響を調べるため占領下の広島に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)。線量に応じたがんの増加などを追跡する大規模調査は後継の放射線影響研究所(放影研、広島市南区)に引き継がれ、世界の放射線防護の基礎となっている。そのABCCで52、53年ごろ、入市被爆の調査が試みられていた。

 45年8月6日の原爆投下直後から、救護活動や人捜しのため、多くの人が郊外から市中心部を目指した。原爆さく裂の瞬間に大量の放射線にさらされたわけではないのに「直接被爆者に似た症状が出た、という話が聞こえていた。それなら調べてみようと」。ABCCで調査を担った医師の玉垣秀也さん(98)=佐伯区=は経緯を語る。

 米国は戦後間もない広島での放射線の測定結果などを根拠に、公式には残留放射線による健康影響を否定していた。しかし県内の市町村や消防、医師に情報を求めると、300人以上の症例が寄せられた。

 ■急性症状を確認

 特に症状が目立つ約40人の診察や聞き取りのため、ABCCの四駆で山間部を回った。少なくとも2人が脱毛や血便、紫斑など典型的な急性症状を示し、数カ月後に死亡していた。歯茎からの出血などがあった人もいた。「入市被爆の影響は、あるはずだ」。玉垣さんは確信した。しかし、調査が継続されることはなかった。

 なぜなのか。経過の一端が、奈良大の高橋博子教授が米科学アカデミーなどで入手した文書に記録されていた。ABCCに52〜58年に在籍し、生物統計部長を務めたウッドベリー博士による報告書である。

 それによると、玉垣さんたちの予備調査を受け、53年12月に研究計画「残留放射線の影響」が承認されたものの「他の仕事の圧迫や調査員の不足」で実現しなかった。ウッドベリー氏は、症状が残留放射線によるのか否かを明らかにするには「より詳細な調査が必要」と締めくくっていた。

 玉垣さん自身も米原子力委員会の科学者に調査結果を伝えたが、「伝染病では」と退けられたという。高橋教授は別の資料から、ABCCが同時期に広島逓信病院(中区)からも入市被爆者の症例情報を得ていたと指摘。「米側も関心はあったはず。だが残留放射線の影響を否定している立場から、都合が悪いデータだとの意識が働いた可能性もある」と推測する。

 ■変わらない見解

 ABCCは75年、日米共同運営の放影研に組織替えした。現在も、残留放射線は「被爆者全体のリスクを考える上では、影響を無視できるほど少ない」との見解だ。原爆投下から1カ月以内に入市した4512人の解析でも「死亡数が増えた証拠は得られなかった」とする。ただ、疫学部の小笹晃太郎部長は「個々人の被曝(ひばく)は、いつどこを通ったかなど非常に複雑。影響を受けた、という個別の経験について判断する材料はない」とも言い添える。

 医師たちは入市者の診察で何を見たのか。47〜54年にABCCに勤め、調査に関わったもう1人の医師、武島晃爾さん(2007年に90歳で死去)の情報を求めて東広島市の病院を訪ねると、現院長の長男裕爾さん(56)が迎えてくれた。

 「寝る間を惜しんで研究したそうです」。県庁勤務の弟徹之さんは被爆死し、姉アヤメさん(15年に101歳で死去)は弟を捜しに入市した。「姉のためにも影響を明らかにしたかったのでは」と父の胸中を推し量る。

 ウッドベリー博士の報告書には、武島さんが53年4月、当時のABCC所長に宛てた報告が添えられている。「残留放射線のせいだとはもちろん言えないが、いくつかの症状は放射線障害とよく一致する」。組織の公式見解と、ヒロシマの医師としての実感。二つのはざまでの葛藤がにじむ。(明知隼二)

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