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バズった外交官「私は広島人」 恩人の存在、そして非核の願い

2021/3/6

オンラインで取材に応じるレジャバさんオンラインで取材に応じるレジャバさん

▽8・6式典参列「今年こそ」

 ツイッターのフォロワー数は4万1千人超え。巧みな日本語で、母国をPRする話題の外交官がいる。ジョージアのティムラズ・レジャバ駐日臨時代理大使(32)。同国が旧ソ連から独立した直後の1992年に家族で来日し、それからの4年間を東広島市で過ごした「広島人」なのだという。当時、生活の全てを支えてくれた恩人がいた。その人から聞いた原爆投下時の体験が、今も胸に残る。「今年こそ、平和記念式典に参列したい」。そんな思いの、裏側を聞いた。

 欧州とアジアの境に位置するジョージア。豊かな自然や食文化で、観光地としての人気が高い。レジャバさんは2019年8月、現職に就いた。日本でいまだ認知度の低いジョージアのPRにと、母国の魅力をツイッターでユニークに発信中だ。同年12月に牛丼チェーンが発売した伝統料理の「シュクメルリ」定食を大使館の職員たちと食べに行った写真をツイッターにアップすると、一躍話題に。「バズった」。

 首都トビリシ出身のレジャバさんは、4歳で日本に移住した。通算の日本居住歴は20年を越えており、日本語が堪能だ。ツイッターでは古典落語を引用するなど、つぼを押さえた投稿が反響を呼ぶ。現在のフォロワー数は各国大使の中で1番多いという人気っぷりだ。

 そんなレジャバさんは「プロ野球はカープ、Jリーグはサンフレを応援する」という「広島人」。遺伝学を研究する父アレキサンダー・レジャバさんが広島大(東広島市)に留学したのを機に、92年、家族で同市西条町に移住した。8歳まで過ごした思い出の場所。「他の県にも住んだけど、広島が一番身近に感じる」と語る。それは広島に来られたことが「奇跡のような偶然が重なったから」。

レジャバさんのツイッター。自身は「広島人」だという(画像の一部を修整しています)レジャバさんのツイッター。自身は「広島人」だという(画像の一部を修整しています)

▽機上の出会いという「奇跡」

 ジョージアは91年に旧ソ連から独立し、直後は混乱状態にあった。90年代の国内は「暗く重苦しい雰囲気だった」とレジャバさん。そんな中でアレキサンダーさんの留学に尽力した日本人がいる。同町で産婦人科を開業していた角谷哲司さん(88)だ。レジャバさんは角谷さんを「一家の恩人」と呼んでいる。

 同じ遺伝学の研究者でもあった角谷さんは78年、旧ソ連であった学会に参加した時、トビリシの大学教授だったレジャバさんの祖父と友人になった。84年、トビリシの大学に講師として招待されて再会し、自宅に招かれた時、息子のアレキサンダーさんの広島大留学を頼まれたという。「温かいおもてなしを受けましたから。当然、協力しようと思った」と角谷さん。ただ、帰国後に留学の手続きを踏もうにも、当時、日本とジョージアとでは国交がなく、電話も通じず手紙も送れなかった。角谷さんは「途方に暮れた」という。

 しかし翌85年9月、角谷さんが学会のために旧東ドイツに向かっていた時に奇跡は起きた。角谷さんは、使う予定だった飛行機が満席だったために別便へ変更し、機内では婚約者の隣に座りたいという男性と席を変わっていた。そうして、隣に座った人は偶然にも、トビリシに向かう途中の、広島大の教授だったという。角谷さんは、その教授に名刺を渡して、事情を説明。レジャバさんの祖父への訪問を頼み込んだ。その後ようやく留学の手続きが進展。アレキサンダーさんはトビリシの大学を卒業後、無事、広島大に留学した。

 来日後、日本語がつたなかったレジャバ一家の生活は、角谷さんと妻の安枝さん(88)が支えた。住居の世話をし、よく夕食を共にした。レジャバさんの弟は、角谷さんの産婦人科医院で産まれたという。レジャバさんは「私たちにとって高価だったランドセルも買ってれた。家族以上の支援をくれた人」と感謝する。

角谷さん(左端)と安枝さん(右端)と交流するレジャバさん一家。中央がティムラズさん(1993年10月)角谷さん(左端)と安枝さん(右端)と交流するレジャバさん一家。中央がティムラズさん(1993年10月)

▽ヒロシマの体験に打ちのめされた

 その後、レジャバさんは茨城県つくば市や米オハイオ州などに住み、早稲田大を卒業。キッコーマン(東京)での会社員生活の後、2015年、ジョージアに帰った。帰国直前、角谷さん宅を訪ねた時に、思いがけず、1945年8月6日の話を聞いたのだという。

 旧制広島一中(広島市中区、現国泰寺高)の2年だった角谷さんは、あの日、学徒動員で同市西区己斐に向かう予定だった。偶然休みになったため東広島市の自宅におり、生き延びた。原爆投下時刻の8時15分はちょうど、爆心地付近を歩いているはずだったという。同校では、建物疎開中だった1年生を中心に、計369人が原爆の犠牲となった。

 角谷さんは約1週間後、広島市内の「学校があった場所」へと向かった。広島駅に漂っていた死臭や、そこかしこに倒れていた遺体、木材にくすぶる炎。今も脳裏にこびりついているという。

 レジャバさんは、その体験を聞いて、打ちのめされ、切に思った。「日本に来られたのは、偶然の出来事が重なっていたから。なんてありがたいことだったんだろう」と。そして自分にも「平和を紡いでいく責任がある」と痛感した。

 歴史上、何度も他民族支配にさらされてきたジョージアは、戦争の多い国だった。直近の戦争は2008年の南オセチアを巡る紛争で、ロシアと軍事衝突した。当時、大学生だったレジャバさんは夏休みでトビリシにいた。街を横切る戦車を見て、「恐怖」が迫った。

 自身の体験も踏まえて「平和な時にこそ、私たちは苦しいほどの、努力をしなければならない」と、強く思う。「広島で起きた悲惨な出来事も、ほんの76年前のことです。常に緊張感を持ち、先の戦争、対立の歴史を学ばないといけない」。力を込めて語る。

 今年の平和記念式典には、国の代表として参列し、原爆資料館を訪れたい。犠牲者のために祈りたいと願っている。そして、角谷さんと再会したい。「今の職に就いてからは、まだ直接お会いできていない。角谷さんは、日本のおじいさん。私の妻や子どもたちを紹介したいです」

2015年にジョージアへ帰国する前に角谷さん夫妻を訪ねたレジャバさん2015年にジョージアへ帰国する前に角谷さん夫妻を訪ねたレジャバさん


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