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原爆ドームはなぜ残ったか…数奇な歩み

2021/3/19

無言の訴え 今もなお

核兵器使用の悲惨さを無言で訴え、人類に警鐘を鳴らし続ける世界遺産、原爆ドーム(広島市中区)は2021年3月、5回目となる保存工事をほぼ終えた。前身の広島県物産陳列館として誕生してから100年あまり。優美な姿が市民に愛された戦前、原爆投下、存廃論議に揺れた戦後…。数奇な歩みを振り返った。

  • 県物産陳列館の断面図(臼井斎氏寄贈、原爆資料館提供)

  • 建設が進む県物産陳列館=1914年(市公文書館提供)

  • 元安橋の下から望む県産業奨励館。土井霞さんが1937年撮影(土井一彦さん提供)

戦前 産業振興 薄れゆく

白亜の高楼―。1915年4月3日、県物産陳列館の完成を伝える中国新聞には、そんな見出しが躍った。れんが造り3階、ドーム状の中央部は5階建て。石材とモルタルで外装が施された。欧州風のデザインは、チェコ人の建築家ヤン・レツル(1880〜1925年)が手掛けた。

県が建設を推し進めた狙いは、県産品の質向上と販路拡大にあった。落成式があった4月5日から40日間、備後表や宮島細工など県内を中心に各地の特産を集めた「物産共進会」を開いている。その後は講演会や美術展も開かれ、文化発信の場としても親しまれた。

県立商品陳列所、さらに県産業奨励館へと改称。戦時色が強まると、建物の用途も変わっていく。41年ごろから相次ぎ、官公庁や統制組合の事務所が入居。最後の催しとなったのは、43年12月の「聖戦美術傑作展」だった。藤田嗣治、宮本三郎たち、名だたる画家による戦争画が並んだ。

傑作展開催時の記念絵はがきが原爆資料館(中区)に残る。2005年に寄贈した女性が、観覧時に購入したという。当時、広島女子高等師範学校付属山中高等女学校の3年生。「勉強そっちのけで勤労奉仕の日々。それが当たり前だったし、誰もが『聖戦』だと信じた。悲しい時代です」

専攻科に進んだ45年の8月6日、動員先の己斐上町(現西区)で被爆した。「あんな時代は二度といけない」。絵はがきに、そんな思いを託している。

1910年12月   広島県が県物産陳列館の建築を決定

1915年4月5日  県物産陳列館が完成

1921年1月    県立商品陳列所と改称

1933年11月   県産業奨励館と改称

1941年12月8日 日米開戦

  • 広島に投下された原爆のきのこ雲(米軍撮影、原爆資料館提供)

  • 被爆間もない県産業奨励館と爆心地付近(米軍撮影、広島原爆資料館提供)

  • 爆心地付近で外郭を残した県産業奨励館(1945年10月上旬、林重男氏撮影)

あの日 犠牲者数なお不明

1945年8月6日午前8時15分、米国が投下した原爆は県産業奨励館の160メートル南東、約600メートル上空でさく裂した。「本来なら私もあそこで死んでいた。亡くなった同僚たちに申し訳ない」。そう話すのは、館内の1階にあった内務省中国四国土木出張所の経理課に勤めていた女性だ。
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