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【特集】被爆の日の写真5枚、広島市文化財指定 元中国新聞カメラマン撮影

2021/3/26

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 1945年8月6日を記録した元中国新聞社カメラマン松重美人さん(13〜2005年)撮影のネガフィルム5点が、広島市の重要有形文化財に26日指定された。原爆に遭った人間の惨禍を当日に収めた唯一の写真ネガだ。ヒロシマの代表的な記録写真は、核兵器が再び使われたらどうなるのかを国内外に伝えてきた。未来にもつなげる活用が、さらに求められている。本社が生前に託されて所蔵するネガからの写真5枚をあらためて掲載する。撮影者の被爆直後の行動や思いを探り、「歴史の証言者」でもある原爆記録写真が持つ意味を考える。(西本雅実、水川恭輔)

爆心地から南東約2・2キロの御幸橋西詰め

<午前11時すぎ 1枚目> 爆心地から南東約2・2キロの御幸橋西詰め。倒れ込み、うずくまる男女、乳児を抱える女性、救護を受ける女子学徒、警察官らが写る。下流側(左)の欄干は原爆の爆風で落ちた。左の建物は千田町巡査派出所、奥は広島工業専門学校(現広島大工学部、移転後は千田公園)。初掲載は中国新聞の別会社が発行した「夕刊ひろしま」46年7月6日付2面。「世紀の記録写真/米誌が全世界へ紹介」の見出しで2枚目とともに掲載した

手前の三角襟の女性は、広島女子商2年だった河内光子さん(当時13歳、2018年死去)

<午前11時すぎ 2枚目> 熱傷を負った人たちは、近くの広島電鉄からの変圧器用の油も塗ってもらった。手前の三角襟の女性は、広島女子商2年だった河内光子さん(当時13歳、2018年死去)。セーラー服はいとこから譲り受けた。動員先の広島貯金支局(千田町)で被爆して、左隣に写る同級生らと逃げてきた。世界的な写真誌ライフは52年9月29日号で「原爆さく裂時/全米初公開」と広島・長崎特集(7ページ)の冒頭で掲載

爆心地から約2・7キロ、翠町(南区西翠町)の理髪店兼自宅

<午後2時ごろ 3枚目> 爆心地から約2・7キロ、翠町(南区西翠町)の理髪店兼自宅。店は窓枠も吹き飛んだ。妹夫婦が営み、奥に写る妻スミヱさん(当時29歳、2017年死去)が手伝っていた。妻は身ごもっていた次女を翌年に出産する。長女と両親は愛媛県・大三島に疎開していた

理髪店兼自宅の窓向こう東側の光景

<午後2時ごろ 4枚目> 理髪店兼自宅の窓向こう東側の光景。路面電車の宇品線が延びる通りを国防服の男性が、御幸橋の方向へ歩いている。がれきは西消防署皆実出張所(皆実町)。「広島原爆戦災誌」第3巻によると、木造2階の出張所は爆風で倒壊した

爆心地から南東約2・3キロの広島地方専売局(皆実町)の前

<午後4時すぎ 5枚目> 爆心地から南東約2・3キロの広島地方専売局(皆実町)の前。御幸橋の東側にあった。被災者に囲まれて「罹(り)災証明書」を書くのは宇品署の藤田徳夫巡査。泊まり明けの同署(爆心地から約4・7キロ)で被爆し、割れた窓ガラスで額を切った。ライフ52年9月29日号は1ページ全紙を充て掲載した

1945年8月6日、松重さん撮影の写真を中国新聞社が所蔵するネガ5点からの画像をトリミングせずに掲載。フィルムに残る傷も修整していない。写真説明は、自身が代表を務めた「広島原爆被災撮影者の会」が編集・81年発行の写真集「広島壊滅のとき」を基に、各文献や関連証言と照らして作成した。


涙でファインダーがくもっていた
松重美人さんの8月6日

松重美人さん

松重美人さん

 「8月6日」朝、松重さんは広島城内にあった中国軍管区司令部での待機が明け、広島市翠町(南区西翠町)の自宅へ戻った。中国新聞社写真部員であり司令部報道班員でもあった。朝食を済ませて出勤する途中で急に便所へ行きたくなり、再び戻って被爆した。

 「生き運があったから撮れたと思います」。あの日になぜ撮ることができたのか―。ぶしつけな質問をされても最期まで律義に、穏やかに答えた。爆心地から約900メートルとなった勤務先に向かっていたら、とても助からなかっただろう。

 自宅は倒壊を免れた。腰に手をやると、革バンドに付けていた愛用のカメラ・マミヤシックスも無事だった。自宅近く北西の御幸橋を渡り、広島文理科大グラウンド(中区平野町)辺りまで行ってみたが、火炎の勢いを見て橋に引き返す。

 その御幸橋で「髪も皮膚も焼けただれた」何十人もの人間を見た。戦後間もないころに書いている。

 「『ひどいことをしやがったな』といゝながら一枚写真を撮った/二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーがくもっていた」。火炎の衰えを見て街中に入ると、電柱の下敷きとなった人、枠組みだけとなった電車の中では、つり革を持っていたと思われる形で死んでいる人…。すさまじい光景にカメラを向けたが、「とてもシャッターを切る気持ちになれなかった」と明かしている。

 「原爆第1号ヒロシマの写真記録」に寄せた手記である。米軍が率いた占領統治が明けた52年にいち早く出版された写真集は、御幸橋の1枚目と2枚目、「8月6日」撮影の最後となる5枚目を載せた。

地図

 想像を絶する世界を目の前にして、報道カメラマンの使命で撮った。同時に自らは無事だったという葛藤が、それ以上の撮影を押しとどめた。原爆を体験した人間の視線から記録し、残したのが5点のネガだ。

 フィルム(6×6センチ判)の現像は、全焼した中国新聞社が設けていた疎開工場(東区温品)で行った。撮影の約2週間後。社は自力発行を急いでいたが機材は乏しかった。現像フィルムは川で水洗いし、木の枝にぶら下げて乾燥した(市71年発行の「広島原爆戦災誌」第5巻収録の証言)。

 原爆当日の惨禍を収めた写真は占領明けから内外で紹介され、69年の退職後は米国や旧ソ連、中国でも証言する。写真が知られるあまり、著作権を巡って元軍人から訴訟を起こされた。1・2審の勝訴が最高裁で確定した98年、化学変化による傷みが避けられないネガを中国新聞社に譲渡した。保存と活用を託した。

 原爆写真ネガの保存を早くから呼び掛け、学術調査団に同行して入った東京の写真家林重男さん(2002年に84歳で死去)らと活動を始めた。「広島原爆被災撮影者の会」を78年につくり、自身をはじめ20人からの写真285枚を原爆資料館に寄託もした。2000年代に入り新たに寄せられたものを含め、当日の撮影ネガは計15点が現存する。

 被爆の実態を収めた写真の重みと貴重さを知るからこそ、こうも訴えた。「私が写した5枚の写真や、数千枚の原爆写真でも本当の原爆の恐ろしさを伝えることはできない」(81年の「軍縮と安全保障に関する独立委員会」での証言)

 写真に撮られた「無言の証言者」たちの姿から何を感じ読み取るのか、考えるべきなのか。原爆写真は今を未来も照らし出す記録である。

原爆資料館に展示される御幸橋のパネル写真の前で語る松重美人さん。「広島原爆被災撮影者の会」の代表として記録写真の保存活動にも努めた(1998年7月3日)

原爆資料館に展示される御幸橋のパネル写真の前で語る松重美人さん。「広島原爆被災撮影者の会」の代表として記録写真の保存活動にも努めた(1998年7月3日)

貴重な「証人」国内外で展示

 広島が未曽有の混乱に陥った1945年8月6日当日に地上から撮影された原爆写真は、わずかだ。中国新聞社が原爆資料館(広島市中区)の資料などを基に2007年に調べた際、確認できた写真はネガがないものも含め35枚だった。

 そのうち25枚は原子雲で、炎上する市街地は4枚ある。被災者を乗せて市郊外に向かうトラックが1枚。原子雲の下での市民の悲惨を収めたのは松重さんの5枚のみで、今に伝える貴重な資料だ。

 「御幸橋の惨状」のカットが初めて新聞紙上で掲載されたのは、中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」の1946年7月6日付。本紙ではなかった。「米誌が全世界へ紹介」との脇見出しが付けられたが、実際に世界的な写真誌「ライフ」に載ったのは占領が終わった後の52年9月。プレスコード(検閲)をかいくぐるためだったとみられる。

 原爆資料館は2019年4月の本館リニューアルに合わせ、御幸橋のカット2枚のパネル(各約2メートル四方)を従来よりも広いスペースに展示した。「立ち止まり、じっくりと見てほしい」と同館。そばには煙を上げて炎上する市街地の写真パネルを置く。広範囲に及んだ被害を強調する一方で、無差別に襲われた市民の姿を際立たせている。

 広島、長崎両市は95年から続ける海外原爆展で松重さんの写真を必ず紹介。20年は米国ハワイ州の真珠湾の戦艦ミズーリ記念館(ホノルル市)で展示された。

原爆さく裂の約1時間後、火炎に覆われる広島市

原爆さく裂の約1時間後、火炎に覆われる広島市。陸軍船舶練習部に所属していた木村権一さんが、爆心地から約4キロ南東の練習部から撮ったネガフィルム3枚をつないだ。原爆資料館が所蔵した本館に同じカットの写真パネルが展示されている


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