文化・芸能
骨つぼに記す422人の名 広島・光禅寺の慰霊碑
▽被爆75年、門徒が作業 戦争の記憶継承願う
広島市佐伯区、浄土真宗本願寺派光禅寺の境内に、戦没者と原爆犠牲者を悼む慰霊碑がある。被爆75年の節目を前に、門徒たちが計422人の骨つぼを納骨堂から取り出して丁寧に拭き、生前の名前を書き入れた。亡くなった一人一人の存在と、戦争の記憶を確実に将来へ伝えよう、との思いを込めた。
慰霊碑の地下が納骨堂になっており、陶製の位牌(いはい)と小さな骨つぼが棚に並ぶ。古くは1894年の日清戦争の戦没者も。遺骨ではなく、遺族が寄せた死没者の在りし日の写真や手紙が入ったものも目立つ。遺骨が戦地から戻らなかったり、被爆後に行方不明だったりしたのだろう。
「この世での最後の仕事と、思い書かせてもらった。一人一人の人生を想像し、『大変でしたね』と語り掛けて」。寺の「世話係(けい)」を20年以上務める森谷勝太郎さん(89)が、慎重に筆を運ぶ。自身は旧制岩国中2年だった14歳の時、岩国市内の動員先で原爆の閃光(せんこう)ときのこ雲を目撃した。
位牌と骨つぼは一対で安置されているが、これまで骨つぼには何も書かれていなかった。星月空(ひろし)前住職(72)によると、2018年の西日本豪雨で納骨堂が浸水。つぼが流されたり、位牌と別々になってしまったりする恐れがあると痛感したという。浸水を防ぐ工事を進める一方、森谷さんたち門徒4人に名入れなどをお願いした。
慰霊碑は1939年、地元の旧五日市町の戦没者の遺族会により建てられた。広島に原爆が投下されると光禅寺も臨時救護所になり、負傷者が運ばれてきた。終戦後、原爆犠牲者も悼もうと建て替えられた。本願寺派の23代門主、故大谷光照氏が52年に揮毫(きごう)した「至誠心」を掲げる。
遺族会の関係者は高齢になり、5年前から寺が慰霊碑の管理を担う。「地域の皆さんに知ってもらい、多くの人で尊い命を供養していきたい」と星月前住職。その思いを遺族も受け止めている。戦死した祖父と被爆死した兄の骨つぼを納めている明石市の堀尾祐子さん(80)は「年を取り、何度もお参りすることは難しくなってきた。皆さんに良くしてもらえるのはありがたい」と話す。(山本祐司)
■原爆死した南方留学生の墓も 広島大、毎年夏に慰霊祭
原爆投下直後から負傷者を収容した光禅寺には、原水爆禁止五日市町協議会が1965年に建てた慰霊碑もあり、2人分の遺骨が今なお引き取り手を待つ。また、19歳で原爆死した「南方特別留学生」ニック・ユソフさんの墓もある。
ユソフさんは、太平洋戦争中に「大東亜共栄圏」を目指した当時の日本政府の方針で、43年にマレーシアから来日した。広島文理科大(現広島大)へ進み、広島市中区にあった寄宿舎「興南寮」で被爆。大やけどを負い、五日市付近まで来て息絶えたという。
戦後に遺骨が寺に持ち込まれ、故星月晨人(ときと)住職が64年にイスラム教式の墓を建てた。毎年夏に広島大が慰霊祭を営む。昨年は、ユソフさんに思いを寄せる市民が絵本を出版し、古里から墓参団が来日するなど、国境を越えて光が当たっている。
変化の大きいウィズコロナ時代に必要なのは、小さくても確かな幸せに目を向けることだろう。モノやカネに頼らない、持続可能な幸福感をいかに手に入れていくかだ。今回は、幸福学という学問からそれに迫ってみる。...
尾道市美ノ郷町で暮らす100歳の石井哲代さんは、毎日が忙しい。台所のカレンダーにさまざまな予定を書き込んでいる。仲よしクラブ、デイサービス、門信徒の集い…。そこで会えるお友達の顔を思い浮かべ、カレン...
第二の人生をどう歩むか。仏教を心のよりどころとし、僧侶になるという生き方もある。社会に閉塞(へいそく)感が漂い、心のありようが問われる時代。仏門に入り、学びを深めようとする人たちの思いに触れた。 広...
仏教に興味はあるが、何から始めればよいか分からない―。そんな人の入門書になるような体験記も刊行されている。熊本日日新聞社の元記者で昨年7月に僧侶になった荒牧邦三さん(73)の「73歳、お坊さんになる...
広島仏教学院では、僧侶になるために必要な仏教の基礎知識を学ぶことができる。 毎年4月に新しい生徒を迎え、1年間のカリキュラムを組む。浄土真宗本願寺派の僧侶を講師に仏教全般や宗教概論、仏教史など16科...