広島東洋カープが試合をした翌日の中国新聞スポーツ面には必ず、コラム「球炎」が載っている。
初優勝の3年前、1972年に「球心」として始まり、「球紋」「球炎」とタイトルを変えながら、46年目の今季まで10人の記者がカープへ叱咤激励を続けてきた。
ファンと喜怒哀楽を共にする、他紙にはない名物コラムだ。

1975

[球心]津田一男(1972~75年に担当)
1975年10月16日付 ◯広島4-0巨人

強じんな雑草 いま大輪の花

真っ赤な、真っ赤な、炎と燃える真っ赤な花が、いま、まぎれもなく開いた。祝福の万歳が津波のように寄せては、返している。苦節二十六年、開くことのなかったつぼみが、ついに大輪の真っ赤な花となって開いたのだ。

カープは春の初め、はち切れそうなつぼみをつけても、開くことのない花であった。花の咲かない雑草であった。来る年も、来る年も…。

原爆に打ちひしがれた広島の人々の心のよりどころに、と結成されたカープ。カープは原爆の野に息吹いたペンペン草、踏みにじられ、見捨てられても、屈することのない雑草であった。それ故にこそカープファンは、いつの日か花開くことを夢見て、愛し続けてきたに違いない。

海の向こうからやってきたルーツおじさんは、この雑草を一年間じっくり観察した。そして二年目、「咲かせてみましょう」と乗り出し、入念な手入れをすませると、さっさと帰っていった。

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つぼみは日ごとに赤みを増し、生き生きと膨らんでいった。水枯れの夏にも屈せず、台風の秋にも折れず…。

十月十五日、つぼみはついに真っ赤な花を咲かせた。なんと長い、待ちに待ったその瞬間であったことか。宙に浮く古葉の姿が涙にかすむ。古葉もまた泣いていることだろう。浩二はお立ち台で、コブシで涙をぬぐっている。そして外木場が、大下が、三村が…みんなが抱き合って…。

広島の街は喜びの人々であふれていることだろう。よかった。本当によかった。そして、この喜びを、いまは亡きカープを愛した人人に告げ、喜びをともにしたい。カープを、いまわの際まで愛し続けたみなさん、見ましたか、カープのきょうのこの快挙を―。

この一年、不撓(ふとう)不屈、明るく勇ましく、一丸となって戦ってきたカープの集約された姿がそこにありました。強運の大下がたたいた、あの先制点。この1点、守り切るぞ―とまなじりを決して投げた外木場。あとは任せておけ―と不死身の金城。そして最後にはホプキンスの3ランがついに、ついに“V1”へのさん然と輝く栄光の橋を手ごたえも確かにかけた。あの虹(にじ)の橋を何度夢見たことか。その虹の橋が、いまはゆるぎない鉄の橋となり、その上で赤い帽子のナインが、涙の笑顔で手を振っている。幾万ものファンがその下で万歳を繰り返している。真っ赤な花、炎と燃える真っ赤な花がそれである。

1980

[球炎]中村忠雄(1976~84年と95~99年に担当)
1980年8月5日付 ●広島2-6巨人

衣笠を支えた負けじ魂

「デビューは代打で、相手の投手は板東英二さん。バットには当たったが、動揺していたので、どこに飛んだかさっぱり。一塁ベースに立ったら塁審が〝君、アウトだよ〟って」。初舞台は1965年5月16日の中日戦(ナゴヤ)。この試合、捕手でスタメン出場のはずだったが、試合前のブルペンで、先発大羽のフォークボールを5球も続けて落球。このために外されたエピソードがある。

その衣笠が、プロ野球未踏の1247試合に連続出場という、途方もない記録を樹立した。よくぞここまで―の感慨ひとしおである。プロ入り3年目に王の言った「僕の信条の第一は、プロは試合に出ることだ」の言葉が、記録に対する意識の始まりといわれる。しかし、生身の体である。故障もあればスランプもある。それを乗り越えての記録には、当然がん強な体、逆境に耐える精神力、さらに確かな技と目的意識があった

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衣笠は少年のころ、ハーフがためにいじめられたという。水泳が得意で、柔道も強かったが、不当に低く評価された。子供心にもやりきれない悔しさとなって積もったことだろう。自分の力を正当に評価してくれる世界。少年のばく然とした考えの中で、必死に求めた結果がプロ野球であった。孤独な少年にいつも無言の精進を呼びかけてくれたのは、ついて離れることのない自分の〝影〟だったと聞く。

68年。根本監督に登用された衣笠は、打率2割7分6厘、21本塁打をキープした。そのオフ、衣笠は言ったのである。「丈夫な体を生んでくれた母親に感謝する。僕はいつもだれかに追われ、こづかれてきた。クソ! 負けてたまるか。僕を支えてくれたのは、それだった」。ここにすべてが集約されているように思える。

「健康管理も芸のうち」と言ったのは、ミヤコ蝶々だが、衣笠を見ているとその感を強くする。死球を避けるズバ抜けた反射神経を、選手たちは「うらやましい」と言う。確かに天性のものだが、福永トレーナーにゴムボールを投げてもらって、死球対策に腐心した衣笠の、陰の精進を知る人は少ない。

未踏の3000試合出場を果たした西武の野村は、「3000メートルの山の頂上を極めた感じ。山の高さは登った者でないとわからないだろうが、ここまで来ると、もっと高い山が見えてくる」と言った。衣笠も思いは同じだろう。米国にはまだ高い山がある。ルー・ゲーリッグの2130試合連続出場だ。あと6年余。衣笠が入団の際、当時の監督だった白石克巳さんの言った「カモシカのような体」はいまだに衰えを知らない。今後も精進と試合に出ることの感激を失うことなく、未踏の世界に挑戦し続けてほしいものである。

1989

[球炎]山田精三(1976年と85~94年に担当)
1989年5月21日付 ●広島0-3巨人

我慢のし過ぎがアダ

広島ベンチは大野を鉄腕投手とでも思い込んでいるらしい。延長十二回、とうとう打ち込まれて負けた大野が気の毒でならない。

最初に大野を代えるのではと思ったのは延長十一回の一死二塁だった。山本監督がマウンドまで行ったが、我慢して続投させた。

延長十二回、一死一、三塁で監督が再び出て来た。まだ代えない。打者が左の駒田ということもあったろう。が、大野の疲労を考えると、代えるべきであった。私の席の後方にいた評論家の青田昇氏は「駒田を歩かせて津田という手もあるな」。そう大声で話していた。

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192球も投げて敗戦投手になった大野の気持ちを考えると、広島ベンチの我慢が、どうも“やせ我慢”に思えてならないのである。

槙原は確かによかった。が、その槙原を打ち崩すために代打を送るわけでもない。最後の二死無走者で、先日の阪神戦でキーオから2安打した山崎がやっと代打で出て来たが、こんな場面ではもう仕方ない。

大野攻略に代打、代打と繰り出してきた巨人の攻めの姿勢からすれば、広島は最後まで手をこまねいて、ひたすら我慢の一手。ベンチのこの姿勢が勝負を決めたと言っては言い過ぎだろうか。

1994

[球炎]永山貞義(1985~97年と2000~02年、09?11年に担当)
1994年5月2日付 〇広島8-3中日

勝って笑って最高の夜

商は笑にして勝なり。これは上方商人の商売哲学だが、三村監督のそれは笑は勝にして商なりである。いわば上方商法が商売は笑って勝つのに対して、三村野球の理念は笑いが勝利につながり、ひいては商売に結び付くといったところか。沖縄キャンプから一日一笑運動を始めて三カ月。やっと連敗から脱出できたことを考えれば、その中でも一番、笑える一日だったろう。

笑いの第一章は三回の西山の本塁打。最少得点だったとはいえ、5試合ぶりに先行できたことは、打線の力みすぎを消去する意味でも大きかったろう。続く好機を逃したのは拙攻病の後遺症が少々、残っていたと思われるが、五、七回には正田の安打をきっかけに、そのつけを償還する貴重な得点。久しぶりにお目にかかった効率のいい攻撃だった。

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こんな流れの試合の中で焦点になったのは、もちろん紀藤のピッチング。八回途中でエネルギーを燃焼し尽くして降板したものの、それまで粘り強く低めに集め続けた投球は称賛に値しよう。昨秋以来、三村監督が報道陣に推奨し続けていたその力を、やっとマウンドで実証した感じである。

この勝利で連敗中の象徴的な現象だった拙攻病が解消できると見なせば、次の阪神戦が楽しみ。こんな試合をいつも地元でやれば、勝が商になる。

2000

[球炎]時永彰治(1998~2000年と03、04年に担当)
2000年7月29日付 ●広島4-5阪神

我慢欠く さい配で自滅

いきなりの延長戦とは、参った。見る方も疲れたが、やっていた選手はもっと疲れただろう。今の広島で、もっとも計算できるミンチー、高橋、河野をつぎ込みながらのサヨナラ負け。ショックは大きい。

主力の野村、前田を欠いて臨むことになった後半戦。全員野球でどう勝機を見いだすか、がポイントになる。「どっしりと落ち着いた野球をしたい」。後半戦を前に、達川監督は目まぐるしい投手起用や代打、代走など選手交代を繰り返した前半戦と百八十度違う戦い方を打ち出していた。

ところが、勝ちを目の前にすると、もうダメだった。2点リードの八回裏、ミンチーが先頭八木に二塁打されると高橋にスイッチ。以後は、前半戦の光景がビデオ再生された。投手五人。野手は十五人を使い、ベンチに残っていたのは倉一人だけ。「刀折れ矢尽きた」と言うより、「自滅」の言葉が適当だろう。

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ミンチーの球数が103球と、目安の100球を超えていた。とはいえ、前半戦はおきまりの継投で試合を落とすケースが目立った。ミンチーに、同点までは任せる。それぐらい、「どっしり」と構えたさい配がそろそろ見たかった。

負け方に良しあしがあるとすれば、「我慢」を欠いたさい配で負けたこの試合は、最悪である。

2005

[球炎]木村雅俊(2001~09年に担当)
2005年6月26日付 ◯広島16-12中日

屈辱バネ 巻き返す新井

今年のキャンプインだった。1月の自主トレ中に全く打撃練習をしなかった新井に、その理由を聞いた。「書くのはホームランを20本打てたときにしてください」。妙な色気もない今の打撃状態なら、いずれ目標に到達するだろう。18本目で約束を破らせてもらう。

左手薬指第二関節に重度のやけどをしていた。オフに精神鍛錬した際に負傷し、患部は骨が見えるほど大きく陥没。医者に手術を進言されたが、「開幕に間に合わなくなる」と断った。1月中はバットも握れず、振れなかった。球団には激しくしかられた。

今季の成績が今後の野球人生を決める覚悟だった。「今年はどんなに頑張っても補欠」。周囲の低評価は肌で感じた。忘れられる危機感と負傷した負い目。徐々にふさがる患部とともに、例年以上に死に物狂いでバットを振りまくった。開幕には間に合った。

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開幕3戦目の2発だけではフロックになる。1年間、コンスタントに打っても、この2年間に植え付けた印象を覆せないかもしれない。「だからがむしゃらにやるしかない」。薬指のやけどがきれいにふさがり、4試合連続アーチ。2年分の悔しさをバネにした新井の巻き返しが始まった。

2010

[球炎]加納優(2010~13年に担当)
2010年5月6日付 ●広島4-5横浜

小さな赤い帽子に夢を

連休の最後を飾る「こどもの日」。保護者に手を引かれ、小さな赤い帽子が続々と球場を後にしている。前日に続いて横浜に競り負けたナインの姿は、彼らの瞳にどう映ったのか。よく頑張った、だろうか。それとも「弱いから仕方ないや」か。

3歳で物心がつくと仮定すれば、日本の未成年者はカープの優勝を知らない。中学生以下の子どもはAクラスすら知らない。親の話や昔の映像で強い時代を見聞きしても、ぴんとはこないはずだ。彼らの主観では「万年Bクラス」の現実がすべてなのだから。

自分が幼いころ、赤い帽子は強さの象徴だった。優勝から18年、Aクラスから12年遠ざかる中で、その意味合いは百八十度変わった。今の子どもファンの心理は、好きだけど弱い、弱いけど好き―のいずれか。個々の選手へのあこがれはあるにしても、強いと胸を張れる誇りは失われた。

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3歳で物心がつくと仮定すれば、日本の未成年者はカープの優勝を知らない。中学生以下の子どもはAクラスすら知らない。親の話や昔の映像で強い時代を見聞きしても、ぴんとはこないはずだ。彼らの主観では「万年Bクラス」の現実がすべてなのだから。

自分が幼いころ、赤い帽子は強さの象徴だった。優勝から18年、Aクラスから12年遠ざかる中で、その意味合いは百八十度変わった。今の子どもファンの心理は、好きだけど弱い、弱いけど好き―のいずれか。個々の選手へのあこがれはあるにしても、強いと胸を張れる誇りは失われた。

借金6の5位。選手も首脳陣も球団フロントもいま一度、使命をかみしめてほしい。チームの浮上は、赤い帽子に誇りを取り戻す道のりの第一歩である。巻き返しの時間は残されている。「子どもたち、カープは強いぞ」。いつか野村監督が熱く語りかける日を、今は夢見て待つ。

2013

[球炎]小西晶(2005~13年に担当)
2013年10月4日付 ●広島3-5中日

一つの時代が終わった

涙を流している人がいる。声をからして名前を叫ぶ人がいる。ちぎれんばかりに腕を振り続ける人がいる。前田のために集まった今季最多の3万2217人。これほど無愛想で、これほど堅物で、これほど無口で、これほどファンに愛された男を、私は知らない。

なぜ、前田はこれほどまでにファンの心をつかんだのか。それは天才的な打撃技術や、故障によるドラマ性だけではなかろう。チームの15年間の低迷と、前田の孤独な闘い。この二つの軌跡を知らず知らずのうちに、重ね合わせていたからではないだろうか。

1998年以降、チームは球界の変化の波にのみ込まれた。ドラフトの逆指名制度に有力選手の獲得を阻まれ、育てた選手はフリーエージェントで去っていった。立ち上がろうとすれば踏みつけられる。それでも立ち上がろうと顔を上げる。その軌跡は「背番号1」の歩み、そのものだった。15年間の暗闇の中で前田が放った輝き。それは低迷に耐えるファンにとって、勇気であり、誇りであったに違いない。

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けがが一人の天才打者を伝説にした。しかし、前田のカリスマ性は、一瞬一瞬の生の輝きで凝縮された、その生きざまの中にこそあった。CS進出というチームの夜明けとともに、前田はユニホームを脱ぐ。それも運命なのかもしれない。2013年10月3日。絶えることのない拍手の中で、一つの時代が終わった。

2013

[球炎]山本修(2012年から担当)
2013年9月26日付 ◯広島2-0中日

耐えて咲いた、小さな花

いつか咲く。きっと咲く。4番が相次いで去り、かつてのエースは海を渡った。嘆き、怒り、涙して、心まで枯れる秋を繰り返しても、信じて待ち続けたことは誇りに思おう。20世紀に咲き誇った6度の大輪には到底及ばないが、いまはちっぽけな赤がいとおしい。

前田健に野村、丸や菊池ら若い才能が一気に芽吹き、ぐんぐん伸びた。外国人たちは速やかに水に慣れ、投打の軸となった。彼らは主力として伸び伸びプレー。それを可能にする土壌がいまのチームにはある。地ならし役は他でもない。低迷と共に歩んできた30代半ばのベテランたちである。

敗戦処理もいとわない中継ぎ投手、谷間の控え捕手、対左腕だけに先発する野手…。役割は理解できても、徹するには覚悟がいる。主力を譲る姿勢はプロとして減点かもしれないが、後輩たちの力を最大限に引き出す度量は人としてたたえられるべきだろう。

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球歴を振り返った時、胸を張れるような実績は乏しいかもしれない。ただ広島に根を張り、じっと耐えてくれたことに感謝する。堅く閉じていたつぼみが開き、子どもたちにようやく伝えることができる。「見てごらん。これがちょっぴり強いカープだよ」

2016

[球炎]五反田康彦(2014年から担当)
2016年6月19日付 ◯広島4-3オリックス

一丸の粘り腰 横綱相撲

昭和の大横綱、双葉山の立ち合いには奥義があった。相手より一瞬、遅れて立ち上がり、全ての力を受け止めてから、自らの形へと引きずり込む。いわゆる「後(ご)の先(せん)」。誰もがまねできるものではなく、真の強者だけがなせる戦法だという。

張り手を浴びたような衝撃のまま、原稿を書く。この取組に野球界の後の先を見た。序盤はまわしを取れず、四回まで無安打。しかし、慌てない。相手の攻めをいなしながら、勝機を狙う。俵に足がかかった九回、菊池の安打を合図にがぶり寄る。丸が続き、ルナが疾走。最後の最後、2日連続となる鈴木のうっちゃりには目がくらんだ。

平野の不調につけ込んだごっつぁんの白星は、まぐれではない。この勝ち方は、今の広島の得意の形。交流戦では本拠地で挙げた6勝中、実に4勝がサヨナラ星。がっぷり四つなら負けはしないという自信が芽生え、チーム一丸の粘り腰を備える。心身充実の中、横綱相撲ができている。

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連日の満員御礼のスタンドに、首脳陣や選手が感謝の言葉を重ねていることも記しておく。もはや番狂わせとは誰も言わない快進撃。歓喜の千秋楽を夢見て、長い戦いはまもなく中日(なかび)を迎える。